最近のトラックバック

カテゴリー

2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

災害情報サイト・地震・台風など

行政の防災情報

無料ブログはココログ

市民サイドの防災情報

フォト

彼は早稲田で死んだ

2024年10月23日 (水)

「むなしさの味わい方」を読んで

むなしさの味わい方 表紙 001
 私個人の最近の出来事についていえば、「うまくいかないこと」だらけであり、「面白くない」出来事がとても多い。体調不良も多く、「いつもの」楽天的な私ではない。少々の失敗や落ち込みに対しては、沖縄流の「なんくるないさ」(何とかなるさ)の心持で乗り切ってきましたが、今年はそうはいかない状況でした。

 このまま今年は低迷して終わるだろうなと思いました。うつになって落ち込んでいくばかりではないかという恐怖もありました。そんなときにこの書籍を金高堂書店で購入しました。偶然書店で目に入り購入しました。

 きたやまおさむさんと言えば、学生時代のご活躍と言えばフォーククルセダーズでした。「帰ってきた酔っぱらい」「イムジン河」「あの素晴らしい愛をもう1度」など活動期間は短いものの、メガヒットを出しています。
むなしさの味わい方 その2 001
 その後は九州大学の教授をされていて、何年か前に定年退官され、フォークルを再結成されたという話題もありました。フォークルの解散後にメンバーの才気あふれる加藤和彦さんの自死もありました。

 実際にお会いしたことはありませんが、きたやまおさむさんはまた意外にも身近な存在でもあります。

 ヨットの大先輩であるUさんが、なんと京都府立医科大学時代ヨット部で、先輩であったそうです。1学年下の「きたやまおさむは クルーだった。」とのこと。3年ぐらい前に初めて聞きました。大学ヨット部は2人乗りの470やスナイプという艇に主に乗り琵琶湖で帆走練習をしています。

 Uさんは舵取り(スキッパー)であり、きたやまおさむさんはクルーで2枚帆を調整したり、風下帆走の場合はスピンネーカーという補助セールを出したり、取り入れたりする係をされていたようです。

 「大学時代は学生紛争でロックアウトされ、おまけに5年で卒業にされた。」とのこと。Uさんは今はある自治体の医師会の会長をなさっておられます。

 さて肝心の書籍の感想です。豊かな時代になり、物があふれる時代になりましても人々の悩みは尽きません。また最近の情報通信技術の発達などで、より人々は精神的に追い込まれているのではないかときたやまおさむさんは言われます。

「相手の反応に敏感すぎる時代」(P32)

「意味のない言葉の氾濫」(P33)

「ご期待対応力が評価される」(P37)

 「ご期待対応力」なる言葉は、きたやまおさむさんの独特の表現です。でも今の時代を的確に「切り取る言葉」ではないでしょうか。

 最近もス-パースターと言われるビックアーティストの伝記的な映画がありました。クイーンのボーカルだったフレディ・マーキュリーを描いた「ボヘミアン・ラブシティ」(2018年)、エルトンジョンを描いたロケットマン(2019年)がありました。

「こうした映画では、主人公のミュージシャンが、ファンの期待に応えようとしながら、こうありたいとの自己像との間で葛藤し、ドラックやアルコール、セックスなどに溺れ自滅していく姿が必ずといってよいほど描かれています。

 また、ドラックなどではなくても、自分の心に生じた「間」を受け止めきれずに、何かで必死で埋めようとしながらも、うまくいかずに立ち直れなくなってしまう場合も少なくありません。

 ともにフォーク・クルセーダーズを結成したメンバーの1人は、2009年に自ら命を絶ってしまいました。彼のことを考えると、今も私は心が傷みます。」(P43)

 心構えの対策として、きたやまおさむさんは、以下のことをいわれています。

「期待に応えるよりも「マイペース」をえらぶ決断」(P44)

「遊びがあってこそ」(P45)

「私たちは、このむなしさ」に慣れ、飲み込まれないようにする術を身につけなければならないでしょう。」(P49)

「このようにみてくれば、心の発達で、他者との関係性や自分の心の中に「間」が生じ、「むなしさ」という感覚を味わうということは、少なくない人たちにとっては、当然の経験であることがわかるでしょう。だから誰も「むなしさ」から逃れられないし、「むなしさ」を完全に消し去ることはできないのです。」(P77 「間」を生きるという課題)

「急な幻滅に遭遇したとしても、私たちの人生はそれで終わってしまうわけではありません。多くの場合、人生という物語は、急な幻滅悲劇の展開で終わることなく、その後もだらだらとつづいていきます。

 生きている限り明日は必ずやってきます。そして日常という時間w過ごさなければなりません。まして現代は長寿社会と言われ、私たちはかつてよりも長い人生を送ることになっています。

 こうした意味でも、私たちには時間が与えられています。」(P112「幻滅の後も人生は続く-時間をかけることの意味)

「物事を解決したり、何らかの対処をしたりするためには、時間が必要です。」時間をかけるというのは「間」(間)が生じるということです。「間」というのは、本書で何度も登場した「間」(ま)のことです。

 日本語では両方とも同じ漢字で表記します。空間的な広がりとしての「間」であり、、時間的な長さとしての「間」のことです。

 心の病気を治すためにも時間が必要です。すぐに治らないからと絶望してしまえば、病気を治すどころではんくなります。時間をかけて徐々に治っていくという「間」をけいけんしなければなりません。

 中略

 大切な相手との関係性にひびが入ってしまったという場合、早急に相手を見限って、関係性を絶ってしまうのではなく、時間をかければ、予期せぬ結果が生まれるかもしれません。そこが希望と絶望が交替する移行の期間なのです。

 心の問題に関する原則は、時こそ「解き」(とき)であり、時間が解決するということなのです。」(P113 待つことと、「間」に立ち続けること)

 著者によれば「待っている時間を過ごすこと、結論を急がずに、結論に至るまでの「間」に立ち続けることは簡単ではありません。」と言います。

 どっちつかずの境遇でひたすらい結果を期待して待ち続けることは、現代人は得意ではありません。結論を急ぎ、結果をもとめます。また「むなしさ」を回避しようとする仕組みが張り巡らせています。

「二面性を受け入れる」(P115)

「2面性を知ることで深まる認識」(P118)

「吐き出してすっきりしたいが」(P119)

「心をゴミで埋めようとする。」(P122)

「割り切れないもの、消化できないもの、未処理のもの、中途半端で矛盾しているもの、そうしたものを心の、いわば「溜め池」のようなところに、そのまま置いておく。そして時間をかける。そうした心の余裕を持つことが出来るかどうかが、「むなしさ」をうまくこなしていくことにもつながってきます。」
(P123もやもやは心の「ため池」に置いておく)
ため息をついても幸せは逃げない」(P124)

 このあたりの言葉は、精神科医のきたやまおさむさんの治療のなかから出てきた考え方であると思うし。依拠しているフロイトの精神分析をかみ砕いて説明をしていただいているようです。

「相手が自分の思ったとおりのひとでなかったとかいうとき、わたしたちは喪失感や幻滅を覚え、心に「むなしさ」が訪れます。

 中略

 心がすっきりしないとき、この怒りの内向と同様の自虐や自責が起きることがあります。相手が自分の思う通りの人ではなかったのは、実は相手が自分を嫌っているからではないか。自分は嫌われても仕方のない、価値のない人間ではないか。

  中略
 
 日本人は外向きに怒りを感じるのが苦手だとよく言われ、私たちは怒りを内向させがちです。でもそれでは、心に「置いた」ことにはなりません。」
(P126怒りの内向と自虐)

 ある新興宗教団体が、自責の念を利用して「その罪を解消するためには、教団にお金を納めて禊をすませなくてはならない。そのためには教団に帰依し、献金し続けなくてはならない」という大きな問題が社会事件でおきました。日本人の特性を悪用した献金システムでした。

「私たちは生きていくうえで、人に借りをつくり、恩を受けながら生きています。そもそも私たちの人生は親を始め、他人のケアを受けなければ生きていくことができないという未熟な乳幼児期からはじまります。

 そして、自分が大人になった時は、今度は自分が子供をケアする。あるいは他者に貸しをつくったり、恩を与えたりする。要するにお互い様です。

 白黒思考に固まっていると、「すまない」を置いておけず、すまないままではいられなくなるのです。妥協しながら貸し借りをつくりながら、物事はどっともどっちであり、あなたも私もお互い様をかみしめながら生きていくことが大切です。

 この「すまないものを「すまない」ままでとして置いておけるか。」ここでも「間」に立ち続けること、未処理のモノをそのまま置いておくことがもとめられています。」
(P!30「すまない」はおたがいさま)

このあたりはきたやまむさんの独特の表現。ご自身の体験と精神科医としての臨床体験や、研究した文献の逸話や、精神病理医師の先輩の所説などがわかりやすくかかれています。

「心の内奥には沼がある」

「現在私たちが生活している場所は多くがアスファルトやコンクリートによって埋められています。沼などは殆どなくなっています。ドロドロと臭く、経済的な価値を見出せない沼などは、どんどん埋め立てられ、私たちの前から聞けていきました。

 しかし人間は人間臭く、乳は乳臭いものだし、大地は土臭いものです。心の一部も臭いはずですが、私たちが人間である以上,有機の匂いがするものであり、私たちの「心の沼」を都会のように埋めてしまうことはできないのです。」(沼は臭いので蓋を P134)

「心の沼は、澄んではいない。」

 心の沼は、いつもドロドロ、ずぶずぶ、ぐずぐず、ぐちゃぐちゃしているので、ドブ掃除は無理です。 中略

 そこには容易に手を突っ込めない危険性もありますし、また性欲や残虐性もあります。底なし沼という言葉があるように、真っ暗で水中がどうなっているのかなかなか理解できないのです。だから心の中で、いくら酷い事、残虐なことを考えても、そのことは否定されるべきではありません。中略

 心の中でどんな空想をしようと、それは自由です。むしろ、心の中で考えてて置いておけるなら、ひどいこと、残虐なことを行動に移さないことが可能になります。心の中で自由に考えたり、想像したりすることを否定したら、ひとはとても息苦しくなり、むしろ危険なのです。

 私たちは、目の前で起きている現実と、心の中の現実と2つの現実を生きています。その2つの現実を生きていることを自覚し、その2つがバランスよく作用しあっていることが健康的な状態です。

 2つの現実の片方しか認めようとせず、あるいは2つの現実を同一にしようとするのは危険です。心の中で残虐性を実行することはよくあることですが、目の前の綺麗な現実だけを認め、それと乖離する心の現実を閉じたり、あるいは心の現実をそれに無理やり合わせようとすることも危険なことです。きれいごとをいい裏を認めず良い子である表にあわそうとすると、心に無理が生じます。

 ひどい、残虐な想像をしてしまうのも自分であり、他者に対して、良い人のように降る真っいているのも自分なのです。2つの現実と、人の2面性を認めることの大切さは、こうしたところからもりかいできます。

 このように、沼はあくまでにごったものであり、そのまま置いておくしかないのです。」(P136)

 長い引用をしました。きたやまおさむさんの言葉の1つ1つに納得しますし、わたしの「鬱々、ドロドロした、自分を卑下し、貶める考え方」から、お陰で解放された気分です。

 でも精神分析の専門分野をかみ砕いて説明してくれていますが、わかったようで、わからないところがたくさんあります。

 この文章を読んでいて思いだしたのは、私の子供時代(1960年から65年頃)小学生時代は、高知市内でも、転校先の大阪府豊中市でも吹田市でも、沼がありました。柵などもなく、「危ない河童に引き込まれるぞ!」とかの看板が立っていました。

 沼は沼で自然界では存在価値があり、水生植物や昆虫、淡水魚類などのビオトープの世界であったし、子供たちの手軽な釣り場でもありました。

 しかし高度成長時代が全国的に始まりますと、沼は埋めたてられ、宅地や工場や商業施設になりました。地面はコンクリートやアスファルトで埋められました。

 今年は猛暑でしたが、沼や小川は埋め立てられ、アスファルトで覆われました。市街地も暑くなります。沼に生息していた、カエルやミツバチや、トンボや、めだかなども身近な場所で見なくなりました。

 便利な社会になりましたが、なんだか皆が余裕のない状態になり、心のバランスを崩すようになりました。私もそうなりかけていました。

 高知でも東京でも皆、暇があればスマホの画面を見て「暇つぶし」をしています。会話もなく、人とのコミュニュケーション力の衰退も心配ですが、心の「むなしさ」や「間」をネットの情報で埋めてしまおうとして、かえって疲労が蓄積されて心にひずみが出来イェイるのではないかと私は心配しています。


「むなしさを味わう」(P157)

 きたやまおさむさんはこう書かれています。

 ここまで見てきたように、私たちの心には「むなしさ」が必ず訪れ、通例そのことから逃れることができないものです。そして「むなしさ」は「すまない」とともにいきていかざるをえません。

 しかし、そのことは、単にそれに耐えるべきものではなく、場合によっては、吐き出したい言葉を生み出し、創造性を育んで、むしろ人間の生に豊かさをもたらせてくれるのではないかと私は考えます。

 「むなしさ」そのものに意味はないかもしれません。でも「むなしさ」をかみしめ、味わうことには、」意味があるかもしれない。(P158) 

 私自身の個人史において自我というものが形成されたのは、中学生時代でありました。早熟な「政治少年」として、政治や社会運動に興味を持ち、当時の情報伝達手段は「ガリ版」(謄写版印刷)でしたので、それで手書きで「新聞」を発行し、社会評論的なことをしていました。

 そのころの作法として「うまくいかないこと。目標が達成できないときの原因を自分の中で追及し、文章化し、高めの達成目標を設定し実行していました。(実力から言えば高めの目標設定故に、殆ど到達できないことばかりでした。)

 しかしながら、自分でコントロールできない課題や、社会運動においては、党派の上級幹部(専従者)の命令などもあり、反論できないまま落ち込んでいき、挙句の果てには運動体自身が解体消滅し、敗北し、放り出されることの繰り返しでした。

 きたやまおさむさんの「沼」という考え方。「空しい」ことにも意味がある。決して無駄なことではない。出来ないときは出来ない。出来なくてもいい。という。まったりした考え方、発想法は新鮮でした。

 自分の気持ちを「文書化」して、目標を整理し、達成に向けて努力しする。それ等はいまでも、地域防災の会合などで、会合参加者の情報共有化の手助けになる手法であります。(深刻な問題以外では有益な方法手段です。)

 しかし万能の処方箋ではありません。きたやまおさむさんの今回の著作を読んで改めて気が付きました。

 今年は正月から手術や入院、療養が続き、その中でも、仕事の合間の「こまめな時間」を活用して、自分なりに「周到な」準備をしていた地域防災の2大大事業(私なりのである「仁淀川町防災キャンプ」が台風で中止になり、地域防災訓練予定日は、思わぬ衆議院の解散総選挙の関係で、延期が余儀なくされ、防災メニューの大幅な見直しが強いられました。

 仕事や地域活動も本調子ではなく、体調も本調子ではない。仕事もうまくいかないことがある。でもそれでも何とか生きて行かなくてはいけない。自分が情けなくて、すべて投げ出したい「マイナス思考の渦の中」で、この著作を読みました。

きたやまおさむさんの先輩格の精神分析医の前田重治さんの心の絵がありました。確かに文字表現で、心象風景を記述されてもわかりにくい。

 フロイトが日本に紹介された時代における精神分析の個々のイメージが描かれています。(P160)
フロイト心の中の世界図 001
 絵は「前田重治 フロイトの精神装置図」(1958年)とありました。

 上部は,外界に向かい知覚のために心は外に開かれています。(中略)

 個の前田先生の絵においても、無意識、あるいはほどんど無意識になっているエス(日本語ではそれを意味するドイツ語)は下部に置かれ、その最下層は身体に根差して「本能欲求取りこみ門が開口しています。」(P162)

「上部の頭脳や理性だけでは人間は生きていけないし頭脳や理性だけが、人間のすべてではありません。理性的な意識よりも、心の下部から湧き上がる、沼の臭い、欲望の臭いとしてのモヤモヤのほうが強くなってしまうこともあります。
現在の自我構造・前田氏 001
 したがって、上部と下部、その両方の領域を備えてこそ、人間の心の全体となるのです。」(P167「無意識と身体」)

この著作を読んで、あらためて、フォーククールセーダーズの」「あの素晴らしい愛をもう一度」の詩を読んでみると、心の深層を感じます。

作詞:北山修/作曲:加藤和彦/歌:フォーククルセイダーズ
「あの素晴らしい愛をもう一度 」

命かけてと

誓った日から
すてきな想い出
残してきたのに
あの時

同じ花を見て
美しいと
言った二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい

愛をもう一度

赤トンボの唄を
歌った空は
なんにも変わって
いないけれど
あの時/
ずっと夕焼けを
追いかけて
いった二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい

愛をもう一度

広い荒野に
ぽつんといるよで
涙が知らずに
あふれてくるのさ
あの時

風が流れても
変わらないと
言った二人の
心と心が
今はもう通わない
あの素晴らしい
愛をもう一度
あの素晴らしい
愛をもう一度

「日常でも、「美しいもの」を共有しながら愛でるのは親子だけでなく、恋人や友人同士でも多いのです。雪見、お花見、花火、お月見、」紅葉狩りと、私たちは昔から同じものを一緒に眺めて心を通わせ、この愛を育んできたのです。
 漱石による訳だという逸話もありますが、「アイラブユー」を「愛している」と見つめあって言うのではなく、肩を並べて、「月が綺麗だね」と言う比較文化論は、私たちの「横並びの愛」の深層心理を鋭く突いていると思うのです。

 だがこの愛が取り返しのない形で崩れ、しこに穴が開き。「つながり」が突然切れるなら、目も当てられない惨状が展開するでしょう。お互いが孤立して、「みんな」からハブられる恐怖や、向い合ってもらえない不安、そして同調圧力が生み出されてしまうのでしょう。

 だから、同じ花を見て美しいといった2人の心が今はもう通わないという悲劇は繰り返されるのだと、歌でも言うのです。(P193「あの素晴らしい愛について」)


 終章にこういう記述がありました。

「探し物はきっと見つからない。もし見つかったと思っても、それはすぐ目の前から消え、失われていきます。なぜなら、心の中で求めている「探し物」と全く同じものは、外の世界には存在しないのです。

 1人の人間のなかには、心の中と外という2つの現実があることを述べました。質の違う2つの現実が、1にの人間の中で共存しているのです。普通はどちらか片方だけが現実でもないし、2つの現実を一致させることも無理です。だから、心の中にある「探し物」は心の外の世界には存在しないのです。P195)

「本書は、蔓延していると感じる「むなしさ」につき、自己分析を踏まえ、日本語、日本文化、現代社会を見据えながら書いた。もちろん最近の私の一般向け書物と同様、フロイト理論や精神分析の対象関係論の考え方を活かしている。しかし「むなしさ」を感じたら、情報収集による穴埋めを控えて、これを味わい、できれば自分で考えてみたらと提案しているのだから、理論的なことやこのテーマに関わる議論は細かく書き込まなかった。」(P203あとがき」

 わたしにとって2024年は「トラブル」続きの年でした。正月には眼病での両目の手術と入院。療養生活などで長期間仕事が出来ませんでした。メガネ合わせに苦戦し、復帰できたのが5月連休前でした。

 でも手術のおかげで「失明」は免れ、「ド近眼」が「中程度の近視」になり、近くは見えるので老眼が不要になりました。悪いことばかりではありません。6月には右手裂傷、9月には帯状疱疹。10月には蜂に刺されるとかいうトラブルまでありました。

 おまけに周到に地元の皆様と準備してきました「仁淀川町防災キャンプ」も中止、地域の史ウ号防災訓練は、衆議院選の関係で延期(10月27日が12月1日)になる事態になりました。

 懸命に真摯にっ取り組んではいますが、「運も悪い」としかいいようのない事態になり、自分の非力を感じ落ち込んでいました。

 でも一方で18歳から70歳まで52年間うじうじと「孤独に」悩んできた問題も半分ぐらい解消できました。悪いことばかりではありません。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-b83a12.html
(「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読んで

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/08/post-f58837.html
(映画「ゲバルトの杜・彼は早稲田で死んだ」)

 18歳の少年(高校生)は長い長い先の見えない暗いトンネルの闇の中にいました。70歳の時ようやく外に出ました。今は71歳になりました。

 今回きたやまおさむさんお著作「むなしさ」の味わい方(岩波新書)を読んで、わたしは52年間も「むなしさ」を味わっていたのであったと思いました。人生そんなものかもしれません。

 仕事も地域活動も社会参加もうまくいかないことばかりです。焦らず「むなしさ」を敵視せず、自分のペースで乗り越えてみます。
yact
 脳ドックの医師は精神科医ではないでしょうが、「ヨットは脳幹トレーニングにはいい」と言われました。今年はヨットのほかにSUPも習います。「71の手習いです。主たる目的は、今の居住地域(海抜0Mの二葉町)は、南海トラフ地震が起きたら水没します。地域の防災会長としてSUPで住民の安否確認をしますので、基礎からの習いが必要だからです。

 自分の限界、体力と気力の衰えを思い知らされた2024年でした。悪いことではありません。できる範囲内で、やるべきことはやり続けます。

2024年8月21日 (水)

ゲバルトの杜・彼は早稲田で死んだ

映画「ゲバルトの杜・彼は早稲田で死んだ」
DSCN7492
 2024年8月18日(日)は高知市自由民権記念館にて、映画「ゲバルトの杜・彼は早稲田で死んだ」(代島治彦監督作品・原案者樋田毅氏)を家内と一緒に見に行きました。

 

 1972年11月8日に早稲田大学構内で、一般学生の川口大三郎さんが、当時早稲田大学を支配していた革マル派の学生たちに対立セクトのスパイ容疑で執拗なリンチを受けて殺害されました。おぞましい事件を元にした深刻な映画でしたが。50人ぐらいの観客が1部には来ていました。

 

 率直な感想は「視聴して良かった。」と思いました。52年前の出来事がリアルに描かれています。「革命」のためと称して人殺しをしてしまう様子が丹念に描かれていました。

 

 川口大三郎さんのリンチ殺害事件後、早稲田大学では革マル派追放運動が盛り上がりましたが、夏休みや冬休みを挟むと関心が下がり、運動は衰退し、盛り返した革マル派に暴力支配されていきました。
DSCN7493
 以後対立セクト同士の内ゲバが盛んになり、場所が大学構内だけでなく、下宿先や路上や、駅構内で公然と内ゲバ殺人が行われ。殺害された人たちは100人を超えました。
DSCN7494
 映画上映後に代島監督と樋田さんのトークイベントがおこなわれました。
原作者の樋田さんは大学構内で革マル派学生たちに鉄パイプで乱打され重傷を負いました。活動を辞め、大学を卒業され大学院も行かれて朝日新聞社に勤務されました。各地を転勤されましたが、学生時代の書かれた文章や当時の資料を段ボール箱3箱を持ち歩いていたとか。50年間の思いを書いたノンフェクションが「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋社・刊)は秀悦でした。

 

 その作品が代島監督を動かし映画になりました。映画の中での壮絶な倫理シーンは早稲田のOBでもある演出家の鴻上尚史氏の関与もあり厚みのある映画になりました。

 

 インタビュー映像では、池上彰氏や佐藤優氏、内田樹氏などの有名人から、川口大三郎さんの同級生たちや樋田さんの運動にかかわりのあった人たちも数多く登場し奥行きを深くしていました。

 

 川口さん殺害の実行犯の5人のうちの1人のS氏と樋田さんは何度か面会し、詳細に当時の様子を聞き出していました。しかしS氏は活字にしないでほしいと
言われていましたので、活字媒体にはできませんでした。
DSCN7496
 警察の供述調書などにも同じ内容のことをしゃべられています。S氏の証言をもとに映画の中でも鴻上氏の演出の参考になったようで、よりリアルな場面になったことがわかりました。

 

 しかし残念ながら革マル派の当事者の登場はありませんでした。

 

 思想の力は殺人行為も正当化してしまう怖さを、人々は気が付かないといけないと思いました。より規模の大きな戦争でも同じです。

 

 日本社会で「連合赤軍の仲間殺し」と「内ゲバ殺人」の蔓延化が、社会運動を衰退させ、政治を劣化させた大きな要因であると思いました。
DSCN7495
 復活させていく手立てをこれから真剣に試していきたいと心底思いました。

 

2024年8月18日 (日)

注意報は解除されましたが・・

地震注意報
 8月9日に日本史上初の「南海トラフ巨大地震注意」が発令後1週間が経過し、格段南海トラフの震源域での深刻な動きはなかったため、15日に解除されました。

 M8以上の巨大地震が起きる確率は0・01%から0・05%になり。5倍になりました。数字にすると1000分の1の確率が、200分の1になりました。ほぼほど小さいですが、地震学者に言わせえれば「とても大きい」とも。

 「注意」が解除になるまでは、「海の散帆(セーリング)は取りやめました。解除されれば、体調と相談して、海へ行きます。

 自分が何者か。緊急連絡先を表記した「SOSカード」は常に今後は携帯します。この爺さんはどこの何者なのかが、第3者に理解され、家族に連絡がいくようにしています。

 自己責任のところもあります。自枌の命と健康は自分で守る決意を一段とたかめることができました。自宅の防災備品の点検もできました。飲料水非常食や、携帯用トイレなどは10日分程度は備蓄しています。もう少し積み増しする必要があると思います。

2024年8月16日 (金)

8月18日は映画「ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ」を見に行きます。

452664501_17967210947773270_4185538999545993898_n
 2024年8月18日に高知市自由民権記念館で、映画「ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ」と「映画監督代治長彦さんと原作者樋田毅さんのトークイベント」があります。
452698835_17967210929773270_886526239982874601_n
 私は中学生時代から「早熟な政治少年」でした。国政選挙があれば田舎町から高知市内の各政党の選挙事務所を訪ね、チラシをもらったり、事務所に人に政治活動の話を聞きました。

 1966年4月から1969年3月迄が、中学生時代。1969年4月から1973年3月迄が4年間の高校時代でした。1973年4月から1977年3月迄が大学生時代でした。この11年間は私らより数歳上の「団塊の世代」が世界的に突出して大学で反戦運動や学園闘争,街頭へ繰り出して警察権力とミニ市街戦を展開していました。

 またビートルズやローリングストーンズらのカウンターカルチャーの時代でもありました。それまでの時代とは変化する節目であり、今風の社会風俗の大半はこの時代に登場し流布していきました。

 わたしは彼らから数年おくれて青少年時代(疾風怒濤の時代)になりますが、ノンセクトの全共闘運動は、私らの高校時代から衰退期になっていて、その代わりにプロ集団(セクト各派)がはびこってきて、社会運動の「おおらかさ」が消え去りました。

 そして社会運動が後退局面に入るや否や、1972年2月に「浅間山荘・連合赤軍事件」がありました。当時毛沢東思想を信仰していた私は、思想的に崩壊してしまいました。なぜ仲間をリンチして殺害するのか。その原理が理解できませんでした。

 同じ年の11月8日に早稲田大学構内で一般学生の川口大三郎さんが、早稲田大学を当時支配し統制していたセクトの革マル派の活動家に執拗にリンチされ殺害されました。ノンセクトの学生が革マル派に対抗して決起し大騒動になりました。しかし早稲田大学の自治会を支配していた革マル派は豊富な資金と武装集団を組織化し、ノンセクトの学生たちを駆逐し、リーダー格の学生にはリンチを加え再支配をしました。
6c6973b8452555037_17967210956773270_32878657367332216_n
 翌年1973年4月にわたしは首都圏にある専修大学に入学しました。早稲田大学での騒動は周辺の大学にも波及していました。ですが。すでに党派(セク)同士の対立構造になっていました。

 「セクトに対抗するにはセクトに入るしかない」状態になり、いつしかセクト(党派)の対立が言論ではなく、先鋭化した暴力行為、テロ行為(相手側セクトの幹部の下宿を襲撃し殺害する。)事態になり、「救殺隊」なるプロの殺人集団まであるセクトに現れました。

 相手セクトの幹部のマンションなどの居場所をつきとめ、電話線を切断し、警察に連絡出来ないようにして、屋上から縄梯子とロープで降りてきて窓ガラスをバールでたたき割り侵入し、容赦なく鉄パイプで頭部を乱打し殺害する事件などが多発しました。

 知り合いの同じ大学の先輩はあるセクトの人でしたが、自分のアパートで対立セクトの襲撃に逢い、鉄パイプで頭をかち割られて亡くなったと聞きました・

 銃火器はもってはいませんが、まるで幕末時代の天誅組や新選組のような殺人専門集団を各セクトは作り上げ、対立セクトの構成員を殺害すべく活動をしていました。1回のテロ襲撃で100万円ぐらいコストがかかったようです。

 こうなると本来国家権力中枢部を打倒すべきところが、刃がひたすら「対立セクトに向いて行きます。そうなれば学生集会に参加することも襲われる危険があります。社会運動や学生運動は衰退していきました。何故仲間殺しをしたり、議論ではなくお互い殺人集団を差し向け合い無限ループで内ゲバをやり続けるのか?その答えや解決策を私は見つけることができませんでした。

 アメリカの大学生はエリートです。その彼らがパレスチナの旗を振り、残虐なガザ市民への虐殺を繰り返すイスラエルと支援するアメリカ政府や企業を糾弾して行動をおこしています。アメリカでは日本のような陰惨な内ゲバ殺人は起きなかったんでしょう。だから健全な学生運動や社会運動が残存しています。日本ではほとんど絶滅してしまいました。

 コロンビア大学では50数年前の「イチゴ白書」の時代を見ているようです。現実です。アメリカ社会の健全性を垣間見ました。日本はどうなのか。自民党が驕り高ぶり政治資金疑惑で滅茶苦茶しているのに、街頭で抗議活動される人はごく少数にとどまっています。

 日本に政治運動や社会運動を忌避する風潮はこの50年間ありました。私が52年間うじうじしていましたが、多くの人も声を出しませんでしたが思いは同じでした。
452607414_17967210944773270_5970839620550475160_n
 「彼は早稲田で死んだ」の著者の樋田毅さんは、当時ノンセクト学生で革マル派と対峙し、リンチを受け重傷を負っています。その後卒業されて新聞記者となり退職後に当時の仲間たちを取材し、また当時対立していた革マル派の元幹部とも意見交換しています。そのレポートに感動しました。

 映画を鑑賞し、トークイベントを傾聴して、私の「暗いうじうじした52年間」の課題を振り返ってみたいと思います。

2024年8月10日 (土)

長崎市長の判断はおかしくはない


2024年8月9日の長崎原爆慰霊の日に、長崎市長はイスラエルを招待しませんでした。日本を除くG6(米・英・独・伊・仏・カナダ+EU」は、イスラエルが招待されなければ、我々は出席しない。と居丈高に騒いでいる。

長崎市長の「対応」は間違っていません。おかしいのは「ダブル・スタンダード」を平然で行うG6+EUの自称「先進国」「民主主義国」ではないのか。
彼らの言い分は「支離滅裂」ですね。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20240808-OYT1T50112/
(イスラエル大使の不招待「変更ない」、米大使不参加は残念=長崎市長)

「日本を除く主要7カ国(G7)各国と欧州連合(EU)は、7月19日付で長崎市に書簡を送付した。ロイターが閲覧した同書簡はイスラエル大使が招待されない可能性があることを憂慮する内容で、招待状を送らなければ同国をロシアやベラルーシと同列に扱うことになると指摘。各国ともハイレベルの参加者を式典に派遣することは難しくなるとしていた。」


イスラエルのパレスティナ・ガザ地区での戦闘行為は「ロシア以上に残忍で非人道的」であることは、健全な精神や判断力のある人が見れば理解できます。

2024年7月26日 (金)

自分の体も心も自然の一部


 先週末の休日にお腹を壊してからというもの、体のバランスが壊れたのか体調がよろしくない。それまで平気であった事務所の気温(31度程度)に耐えられなくなり、朝から1日事務仕事でもエアコンをいれています。

 こんな体たらくなことは、しばらくありませんでした。年始からの両目の手術と入院、療養、視力調整、6月の右手薬指の裂傷があり、半年間は仕事も地域活動もできないありさまでした。70歳という正真正銘の高齢者になったということでしょう。

 それは仕方がない。ただ大きなプラスの出来事は、18歳の高校生時代から今に至る52年間悩んでいたことが、ほぼ解決したことです。それはとてつもなく大きい。「さあやるぞ!」と意気込んだとたんの体調不良でした。

 体調と精神を焦らず整えて、前進しましょう。あとはやりきればいいことばかりですから。やりきりますよ。

2024年7月 3日 (水)

終活セミナーは大変参考になりました。

DSCN6059
 2024年6月29日(土曜)は、高知市下知コミュニュティ・センターにて「始めよう!終活 あなたらしい人生を送るために」が開催されました。講師は櫻本智子さん(一般社団法人終活カウンセラー協会・認定終活講師、厚生労働省認定・1級葬祭ディレクター)でした。

 講演会の段取されたのは下知コミュニュティ・センター職員の氏原香澄さん。事前に氏原さんにご紹介を受け面談していたこともあり、場違いのお爺さんですが参加させていただきました。20人が参加されていました。
DSCN6054
 「終活」という言葉が私のなかで「いい言葉」と思えるようになったのはつい最近です。実は私は18歳ぐらいから今に至るまで、1972年2月の連合赤軍事件と1972年11月の早稲田大学での川口大三郎リンチ殺人事件後の内ゲバ殺人の蔓延に悩み、52年間くよくよと人生を過ごしてきました。

 2018年に父が99歳、2022年に母が97歳で他界しました。親不孝者ゆえに、両親の在宅介護は家内の支援も得て、きちんとしました。両親の寿命からしても「あと30年」の人生です。私なりに自分尾関わった社会思想や社会運動を総括し、就活しませんと「死んでも死にきれない想い」がありました。

 桜本智子さんは講義テキストの中で的確な言葉で表現されています。私の「くよくよ人生52年のくらい長いトンネルからの脱出と共通しています。

「終活を始まるにあたり、自分の人生の棚卸をすませてから、その中ですぐにとりかかれること、出来そうなことを選択し、「不安」江尾「安心」に変えることからはじめましょう。「終活」は非常に分野が広く、様々なことがからみあっています。また、人によって環境や考えも全く違います。」

 最近ようやくわたしも今年になって「長い暗い52年間閉じ込められていたトンネルから出口の光がかすかに見えてきました。それは2冊の著作との出会いでした。

 最近私は2冊の著作を熟読しました。1冊目は友人に借りた「重信房子がいた時代」((油井りょう子・著・世界書院刊)でした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-b83a12.html

 2冊目は「彼は早稲田で死んだ」((樋田毅・著・文藝春秋刊)でした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-a3dfc5.html

 著作者はプロのライターであり、50数年前の社会運動の当事者であり、渦の中におられた人たちでした。「古い時代の出来事」「思い出」とせず、当事者たちに向き合い、取材し、原稿を推敲して記述したノンフェクションの作銀でした。同時代に渦の外周に居た田舎者の私は、2冊の著作を読んで、「半分ぐらい」救われました。
DSCN6056
 ですので「最長30年の人生」をフル活用し、自分自身の終活をしたいと思った次第です。

 さて桜本智子さんの講演は素晴らしい内容でした。講演で話された内容をまとめてみました。(というか印象に残った言葉を書き留めました。)

「終活とは。終焉(しゅうえん)を考えることを通じて自分を見つめ、今をよりよく、自分らしく生きる活動」(一般社団法人終活カウンセラー協会)

「終活という言葉は2008年頃つくられました。今でも死についての準備をすることなど考えたくないと思い込んでいる人が多い。
 生まれた人は誰でも必ず終末が来る。最後の事を考えると人の人生は楽しくなる。」

 桜本さんは、講演のテキストで5つの設問を書かれていました。

「①あなたはいま人生を楽しんでいますか?」

「②あなたにとっての人生の目的は何ですか?」

「③あなたが今不安なことは何ですか?」

「④あなたが大切な人に伝えておきたいこと、残しておきたいことは何ですか?」

「⑤何かあった時に相談できるひとはいますか?」

「身近な終活の3原則とか

1)家の中の危険を点検・排除しましょう。

  「ぬかずけ」を守ろう。「濡れているところ」「階段には注意」「かたづけしてつまずかない」ことです。


2)財産の把握をしましょう 預金通帳。クレジットカード、各種カード類の整理をしましょう。

3)定期的な健康診断をしましょう。死ぬまで元気で人生を楽しむことが、主かつ最大の目的です。」
DSCN6058
 「あと30年お人生を全力で生きる。」と決意した私と同じ波長ですね。

 去年70歳になりました。「立派な高齢者」になりました。

 2024年1月は両目に障害が出て正月早々2回手術、入院、療養、視力調整していました。5ヵ月かかりました。さあこれからだという時に、6月17日に窓の金具に右手薬指を挟み裂傷。翌日皮膚科で「手術」をし、全治3週間の診断。今年は6か月間「足踏みしました。」仕方がありません。老化も認めます。いつまでも若くはありませんから。

 私の考え方と桜本智子さんから教えていただいた「終活」の考え方は違和感はありませんでした。ありがとうございました。講演会を情報提供いただきました氏原香澄さんに感謝します。

2024年6月21日 (金)

「重信房子がいた時代」を読んで

 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。
重信房子がいた時代1_NEW

「集団になると、人は考え方が浅くなって非論理的になってしまう。あさま山荘事件を含む連合赤軍によるリンチ殺人から始まる一連の事件は、その典型だと思うね。

とにかく閉鎖された集団の中で、非常に強い権力性を帯びたリーダーがいて、過度のストレスを全員が持っている。こういう状況で人は判断できなくなる。あとから『なんであんなことをやってしまったのか』と後悔する。
重信房子がいた時代4_NEW
こういうことはたくさんある。日本史にも世界史にもね。そうしたことを端的に示す事件だったと思う」(映画監督・森達也氏談)NHK記事より)

 とにかく私が高校を留年した1971年2月に引き起こされた「連合赤軍・あさま山荘事件」と1972年11月に「早稲田大学構内で革マル派による一般学生川口大三郎さんへのリンチ殺人事件」から連なる際限のない内ゲバ殺人抗争が激化し、日本社会から「社会運動」「政治闘争」が、2つの「ブラックホール」に吸い込まれ消滅しました。

 私個人は「連合赤軍」や「内ゲバセクト」の渦の渦中にいたわけではなく、大きな影響(悪影響)を受けた渦の外周に居ただけの人間です。ですが渦巻は渦の外周ほど高速で回転します。強い悪影響を受けながら、鬱鬱とこだわり続け、貧弱な頭脳で1972年から52年間考え続けてきました。

考えたことは、「なぜ日本の新左翼セクトは仲間殺しをし、セクト同士で連携することなく、殺し合いを際限なくするのだろうか?中国は敵対していた共産党と国民党が連携して抗日軍をこしらえました。その動きのかけらもないのはなぜなのか?」でした。

 個人ブログで「連合赤軍と新自由主義の総括」なるタイトルをつけ、10年以上前から考え続けてきました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html
(連合赤軍と新自由主義の総括)

 最近読んだ2つの著作「「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊)と「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。すべて解決したわけでもないですが、2つの著作は私の悩んでいた52年間とリンクしています。長い長いトンネルの出口のかすかな灯のように思いました。

 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)の読書感想文です。一読して。重信房子さんは、「普通の生活者感覚のある人」「1960年代後半から1970年代初頭の激動の時代の渦の中にいた人ですし、著者の油井さんは、重信房子さんの生い立ちから家庭環境、学生生活も丹念に描いていますので、人物像がわかりました。

 私は最近はYouTubeで重信房子さんの出演する中東情勢を解説する番組を時折も見るようになりました。

「私たちがパレスティナへいったころは、旧ソ連の支援がパレスティナにあり、パレスティナの青年は旧ソ連で高等教育を受け大学に進学し医師になる人もいました。受け入れてくれる素地はありました。」

「イスラエルがレバノンに侵攻した1982年以降は、中東に居ずらくなりました。また旧ソ連が崩壊した1989年以降は支援も少なくなりました。」

「1995年にイスラエルとパレスチナの共存を国是としたラビン首相が暗殺されました。1996年に台頭したのがパレスチナ国家を認めないネタニエフでした。これ以降は対立と分断が始まります。」

 重信房子さんはYouTubeで明瞭に解説してくれました。なるほど。という感覚でいたところ、偶然友人が「重信房子がいた時代」を貸してくれました。「家内の親戚の人が書いたノンフェクション。手元に1冊しかないのを送る。読んだら返却してほしい。」とのことでした。

 稚拙な読書感想文です。印象に残った言葉を書き出しました。

「ねえ、あなた髪型かわったわね。」

重信房子は、私にそういった。アクリルの窓越しに手と手を合わせたあと、いきなり、

「昔はもっとボーイッシュで、すごく短かったじゃない。その印象が強いの井よ、それから目も変わったわね。ほら昔はもっと細かったじゃない。」

「しわが出来て、ふかくなったんですう」

 そんなことを返しながら、重信房子も、ただの、ふつうの叔母さんじゃん、と思うと笑いがこみあげてきた。

 ほぼ40年ぶりに面と向き合って、言葉を交わす、その話題がこんなとことから始まるとは、さっきまでの気鬱は何だったのか、と力が抜けた。」(40年振りの再会 P11)

「房子がアラブに向けて出国したのは1971年。赤軍派の結成は69年8月23日だが、その前から房子は大学を離れて党派活動に専念するようになっているはずだ。そのときから、私が房子と会う機会はなくなった。

 したがって、この再会葉41年ぶりでもあった。しかも親しくしていた時期は67年から68年にかけてのわずか2年足らずである。一緒に歩いた土地も、駿河台のせいぜい半径2キロぐらいのものだ。

 同志でもない私には、共有する記憶はわずかなものだ。この空白はどう埋めたらいいのか。そもそも埋めることはできるのか。話すこともなく、会話が途切れてお互い気まずい思いをするのではないか。ドラマや小説の再開のシーンを浮かべてなぞらえようとした。

 ところがいきなり髪型の話である。(中略)41年間の空白はあまりにあっけなく消えた。その41年前の事、今のこと、年相応のしみやしわ、白髪のこと。脈路なく話は結んだりほどかれたりして、わずか10分ほどの面会時間は終わった。

 帰りの電車の中で思い出した笑顔は、40年前と変わらなかった。目も口元も、学生時代と何1つ変わらなかった.」

「ねえあなたは誰が好きなの」房子は唐突に話しかけてきた。

  中略


 あのころ、汚い研(文学研究会)のサークル室で、彼女の白い肌はきわだっていた。ピンクの口紅がよく似合っていた。おっとりした問いかけだったが、いい加減な返事を許さない強さがあった。

 文学サークルで「誰が好きなの」と問われれば、あのころは、カフカ、カミュ、吉本隆明、埴谷雄高、・・。そして大江健三郎とたいていの学生は答えた。しばらく前まで高橋和巳が明治の助教授に名を連ねていたこともあり、よく読まれていた。実際に私たちの周りでは、文庫本になったばかり「散華」手に高橋勝巳の名を連呼しているものがいた。

 そんな中で、私が「谷川俊太郎とか富岡多恵子です」と答えたものだから、房子は、一瞬とまどった。私の言った詩人を知らないのだなと私は思った。ところが彼女はすぐに人なつこい笑顔でいった。

「えっほんとに。私も詩を書いているのよ。現代詩を。今度見せてあげる。あなたもみせて。」その時たまたま部屋に行ってきた男子学生を紹介しながら、私と彼の両方にいった。

「ねえNくん。彼女も現代詩ですって。Nくんは鮎川信夫をよくよんでいるのよ。「荒地」の詩人の井戦争体験や詩に惹かれるんですって」P14

 1967年・68年頃のブント系(社学同の影響の強かった明治大学の学生の傾向なのか、当時全共闘世代と言われた多くの学生たちの流行の読書傾向なんでしょう。

 わたしは重信さんより8歳、著者の油井さんより6歳年下です。67年・68年は田舎の中学生でした。1970年の高校2年生の時、高共闘をやっていた追手前高校の連中が吉本隆明がどうしたとか言うていました。私は田舎の高校生でしかも毛沢東主義者でしたので興味はありませんでした。
yosimoto
 1973年に大学へ入学して、入部した文科系サークルがブント系の傾向いうが強く、その時期に吉本隆明、埴谷雄高、高橋和巳、などを読みました。荒地の詩集も読みました。鮎川信夫もです。「自由闊達」という雰囲気でした。
ayukawahaniya
 1973年の夏ごろまでは、ノンセクトの学生たちの運動が、早稲田大学でもセクトである革マル派を凌駕するのではないかという勢いがありました。しかし夏休みが終わり秋になると革マル派は武装集団として「プロ化」し整然とした武装集団に変身していたようです。

「50人を超える革マル派が。背丈より長い鉄パイプを持ち、一斉に地面を叩いていた。最初は。ドン、ドンと間隔を空けてゆっくりしたテンポで次第にその間隔が短くなり、最後はドドドと地響きを立てるかのように連打した後、全員が鉄パイプを水平にして、雄たけびを上げながらスロープを駆け上がってきた。まるで戦国時代の合戦のようだった。あれほどの恐怖を感じたことはなかった。」

「革マル派の活動家達が文学部キャンパスに入ると同時に、リュックから三段~4段階の折りたたみ式の鉄パオプを取り出し、カチャカチャと音を立てながら組み立てていた。」
(P174「牙をむく暴力」彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊より。

 結局組織化してきたセクト(党派)の武装集団に対抗するためには、セクトの武装集団でない対応できない時代となり、口論や論争で対立する相手をやりこめるのではなく、暴力行為で相手セクトの幹部を殺害する行為を繰り返すようになりました。

 思想の左右を問わず、「異論を排除し、時に暴力的に排除し、殺人行為もしでかしてしますことが常態化する。」異常さが52年前の日本の新左翼党派(セクト)にありました。これでは問題意識を持ち、デモや集会に参加しただけの学生一般は、ついていけるはずもなく、必然的に政治闘争、社会運動は日本社会から衰退し、広く支持を得ることが難しくなりました。「政治」に無関心な市民が増大し、「改革」を標榜する自民党清和会政治を容認し、格差社会を拡大することに結果として加担するようになりました。

 油井りょう子さんは、重信房子さんのご家族(両親や兄弟)や生い立ちなども丹念に記述されています。お父さんは若かりし頃、極右団体血盟団のメンバーでありました。15歳も年が離れた奥さんと結婚し、敗戦後は夫婦で食料品店を世田谷で開業し、懸命に家族力を合わせて生きていました。

 重信家の兄弟姉妹は皆成績優秀で大学進学をしたかったようでしたが、商業高校や工業高校に進学し、卒業し大手企業へ就職しました。重信房子さんも商業高校卒業後は、大手食品メーカーのキッコーマン醤油に就職しています。

 高校時代に文芸部に入部しました。自作の小説を書くだけでなく行動力もあったようです。

「高校時代には、武者小路実篤の「友情」を読み、その作家に会いに行った。そこで、作家に向かって「ヒロインの杉子は民主的ではない」などと面と向かって批判した。

 大作家は、台所でお茶の用意をいしている妻に聞こえるように、笑いながら大きな声で言った。「おい、杉子は民主的ではない、とここにいるお嬢さんがいっているよ」
 杉子という女性は、その頃の作家の妻がモデルだったからだ。批判したお嬢さん、房子のために大作家は色紙まで書いてサービスまでしてくれたという。」(文豪に会いに行く P41)

 単なる文学少女だけでなく、物おじしない行動力も備えていたようですね。感心しました。

 また重信房子さんの兄弟姉妹は地域社会の現実と真摯に向かい合っていました。

「先にもふれたが、房子の家の近所に朝鮮人の部落があった。近所の大人は,子供たちにそこへは「近づくな」とあからさまにいった。1950年6月から53年7月迄の朝鮮戦争の影響もあった。
重信房子がいた時代2_NEW
 しかし、房子の長兄が自転車に乗っていてチンピラに因縁をつけられたとき、一家を守ってくれたのは、この集落の人々であった。好奇心旺盛な房子達きょうだいは、関心を持って集落の人々の暮らしや、自分たちと違う風習を見つめた。

 春、桜の季節になると、集落の人々が、馬事公苑に繰り出すのです。そして、太鼓を鳴らし、手拍子をとって」にぎやかに歌い、踊っていました。華やかな服装とにぎやかな踊りと、ふだんの暗くくすんだような暮らしとの差が、あまりに大きいので、毎年、驚いてみていました。と房子は振り返る。」(P44「戦後民主主義の申し子」)

 わたしも小学校低学年時代に大阪にいました。経済格差がある地域でした。上流の家庭は、母親は女子大卒で専業主婦。子供にが大学生の家庭教師をつける環境。そのお母さんたちが「あそこへは行かれん」と言っていたのは地域内の朝鮮人集落でした。私は転校生でしたので両方の地域で友人がいました。

 朝鮮人集落のご両親は共働き家庭。母親は在宅せず、アパートの鍵を子供に持たせていました。「かぎっ子」という言葉を初めて知りました。うちの母も土地らの地域の子供も差別せず、おやつを出していました。重信家も健全な過程であったと思いますね。

子云う高3年生の時は「小さな親切運動」を夏休み返上で懸命にボランティアをしているところを新聞に取材され、記事になっていたそうです。

「このころの房子の活動は、あくまでもけなげな正義感からホームルームでリーダーシップをとるという範囲でしかなかった。外へ向かって行動し、発言しても、だれひとり傷つけるわけでもなく、自分も傷つかず、大人たちからも好意を持たれ、優等生のお嬢さんが、勉強と両立できる健全な活動の範囲だった。

 こんな生徒はどのクラスにもひとりはいたはずだ。こうしたかつどうがのちの「国際テロリスト」の萌芽と見ることは誰にもできないだろう。むしろ、戦後の民主教育が理想とした、貧しさに負けず、いわれなき差別に挑み、真っすぐ明るく頑張る女学生の姿そのものではないだろうか。」(P47[戦後民主主義の申し子」

 重信房子さんは1964年の高校を卒業し、キッコーマン醤油に入社されました。そして翌年「教師になりたい」夢をかなえる目的で1965年明治大学2部(夜間)文学部に入学されました。

 昼間は会社勤務。夕方は夜間の大学生。いろんな職種の学生がいて刺激になったようです。その後1960年代後半のうねりのような社会運動が世界的に先進国で起きましたが、サークル活動や自治会活動、社会運動の大波が到達してきて重信房子さんも影響を受けて、思想信条も変化して行きました。
重信房子がいた時代3_NEW
 1965年の日韓闘争、学費値上げ反対闘争、1966年の各大学での全共闘運動やベトナム反戦闘争、1967年、1968年頃には、社学同(ブント系)の運動に影響されていきました。

「集会やデモに房子は参加していた。しかし房子は表には立たず、つねに「救対」であった。応急処置をする包帯や赤チンの入った救急箱を手にして、セクトを超えて救援に(救護)対策にはしりまわっていたのである。デモの後ろにいて、傷ついた学生や労働者を手当てする。それは明治の学内や関係者に限らなかった。」(「救対の重信」P86)

 また闘争は思い付きで始まる。「1968年6月21日で社学同の委員長のMがパリのカルチェラタンのようなものだ。やれるのはやはり明治だろう。中央では社学同集会やって呼応させるから」

 明治大学の学館から長い机を運び出し、御茶ノ水駅から駿河台へ通じる明大と売りに並べてバリケードを築こうというのだ。車の往来の激しいそのとうりの真ん中に机を置くのだ。

 中略

 またたく間に開放空間が出来上がりました。早速「解放区」「反安保・反戦の砦。神田カルチェラタン解放中」などの立看板を御茶ノ水近くの道真ん中に立てました。」(神田カルチェラタン P104)

 記述されている文字をなぞっていても楽しい。ほんのわずかな時間でも「解放区」が出来たことが楽しいです。社会運動や闘争は明るく他の良くないといけない。

油井さんはこう記述しています。「房子が熱い思いで振り返った神田カルチェラタン闘争。社学同が掲げ、現思研がリードし、市民を巻き込んだ、この戦いの熱気はいったいなんだったろうか。あの時代の闘争の1つだったのだろうか、それともまぼろしだったのか。あの時代に、あのキャンパスにいた一人として、私は、遠い日の物語であり,やはりまぼろしだったのだとしか思えない。」(P104)

 幻であれ何であれ、「解放区」を日本で大学構内ではなく、神田の路上で体験したことは羨ましいです。そういう体験を私はしたかったです。後にも先にもそういう「解放区」は日本史ではなかったと思います。

また重信房子さんの父親の重信末夫さんは、青年時代血盟団の筋金入りの右翼青年でした。1967年の羽田闘争の顛末を家族に熱く語る房子さんに末夫さんはこう言われたとか。

「房子本気で革命をやるなら、あのようにやってはいかん」

 中略

「本気で革命をやるなら、まず民心を重んじなければならぬ。民族の心を知らぬ者が世界革命を唱えても、それはコスモポリタンにすぎぬ。
 井上日召は1人1殺主義と言われているが、そうではなく、1殺多生は1人ではできぬ。」(「父よ娘の革命」P113)

「革命とは死ぬことを見つけたり」と思っているんだ。革命の途中で死ぬのはやむをえない。同志の死は革命の捨て石ですよ。捨て石がなければ革命なんかできないのいだから。
 
一般市民の死、負傷はやむをえないことである。革命をやる以上犠牲者はでるのはしかたがない。

 ただし、内ゲバをやるような下衆な根性では革命が出来るのか。出来や市内四・そんなもの」と吐き捨てている。」(PO1269

 やはり本物の革命戦士には、内ゲバは堕落であり、排すべきものであるという真摯な心意気があります。本物ですね。

 大学では1969年は全共闘運動が退潮し、学生運動が変質し始めた時期だったようです。油井さんによりますと重信房子さんは、キッコーマンは1年半ぐらいで活動と両立は難しいということで退社されましたが、サークルに活動、学生運動、アルバイトの多忙な日々でありながら大学は4年で卒業、しかも教職課程も取得していました。更に政経学部3年に学士入学しています。それは専従のプロのセクトの活動家ではないと大学当局が判断したからでしょうと油井さんは記述しています。

 教師になりたかった重信房子さんですが、取り巻く状況はそれを許さないようになっていったようです。1969年に全共闘運動の衰退もあり、ブントのなかで「武装闘争」を主張する関西派が台頭し赤軍派を結成します。

 1969年11月に武装訓練をすると大菩薩峠の福ちゃん荘に集結していた赤軍派主力部隊50数名が全員逮捕されました。

 1970年3月に田宮など9人の赤軍派がよど号をハイジャックし北朝鮮に飛びました。本当の目的はキューバでしたが北朝鮮は寄り道でした。「俺たちは明日のジョーになる」という漫画的な事件でした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-647d.html
(個人ブログ「われわれは明日のジョーである」2009年5月4日)

 1971年2月に赤軍派の1部と毛沢東主義者の京浜安保共闘が合体した連合赤軍があさま山荘事件を引き起こし、無残な仲間殺しが露呈されました。重信房子さんと明大二部文学部で親友だった遠山美枝子さんは惨殺されました。

 重信房子さんは1971年3月に中東のベイルートに到着されていました。


WIKIPEDIAで検索しますと「日本赤軍」の活動履歴が出てきます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8F%8D%E6%84%9F%E3%81%A8%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%AE%E5%85%88%E7%B4%B0%E3%82%8A

 記述は不確かな部分もありますが、「活動年表」的なものがないと、なにせ50年から40年前の出来事なので、こちらも記憶が定かではないので、事実誤認は避けたいので、検索してみました。

 1969年頃からノンセクトの広範な社会運動(全共闘運動)が退潮傾向になり、70年安保闘争はセクト主導になりつつありました、革共同中核派、革マル派、社青同解放派、ブント(共産主義者同盟)は分裂し、戦旗派、叛旗派、ML派、赤軍派などに分れつしていきました。

 記憶が正しければ赤軍派は「前段階武装論」とか「国際根拠地論」にもとづいた武装闘争優先の党派でした。ですが主力部隊と幹部の大半が1969年の大菩薩峠のふくちゃん荘の合宿所で逮捕されました。

 1970年の「残党の」田宮ら9人がよど号をハイジャックして北朝鮮経由でキューバへ行く予定でした。「国際根拠地論」に戻付いて行動であったgと思います。

 国内に残された赤軍派の中堅幹部の森恒夫は、思想信条の全く異なる毛沢東主義者集団の京浜安保共闘と結託し、連合赤軍を結成し、「国内山岳アジト」で、日本国内での武装闘争を仕掛けようといしていました。

 最高幹部絶対主義と些細な主張の違いを許さず「総括」と称して、仲間にリンチを加え殺害する行為を繰り返していきました。「神田カルチェラタン」のおおらかさなどみじんもない、息苦しい閉ざされた閉鎖組織になってしましました。重信房子さんの明大時代同じサークルで親友だった遠山美枝子さんはそのなかで惨殺されました。

 1971年3月に重信房子さんたちは「国際根拠地」を求めて少数の仲間たちと中東ベイルートに居ました。1970年代は、ハイジャックや武装闘争など「日本赤軍」は活動を激化させた時代がありました。

 何故アラブなのかは油井さんも含め文研や明治大学の仲間たちもさっぱりわかりませんでした。その理由を油井さんはこう書かれていました。

「なぜが、少しずつわかるようになったのは、04年の房子の公判を通じてだ。房子は、1月27日の第40回公判で述べている。

「(よど号事件に関連して)逮捕されて出てきた後、実際には、もう自分にやれることは余りないな、やめようかなということで、迷惑ばかりかけて力になれないから、もう1回学校へ戻ろうかと思ったんですけど、もっとひどいというか、誰もいなくなってる状態でだったんで、ぜひ国際部を引き受けてほしいと、国際部のキャップに言われまして、それを手伝うという形で協力しましyた。」(P147「国際根拠地づくり」)

 中略

「そしてなぜアラブだったのかと弁護人に重ねて問われて、房子はベトナムと比較して答える。ベトナムは陣地もあり。国家という後ろ盾もある戦いであり、義勇兵として参加を希望したものに対しては、自国の帝国主義と闘ってくださいという立場をとっていて、それは1国の革命解放で完結していく戦いであった。

 しかしパレスティナ問題というのは知れば知るほどい、世界革命なしでは解決できない。で、世界党、世界赤軍、世界革命戦線というように主張してきた赤軍としては、まさにパレスティナの戦場を戦いの根拠として、世界は新しくうまれかわるんではないかと、そういう非常に大きなインパクトを持ったイメージに受け止めました。」(P149)

 結果的に赤軍派の「国際根拠地論」を「まがりなりにも」「見える化」できたのは、重信房子さんが国際部をしぶしぶ引き受けたからであったと思います。

 「あとがき」で重信房子さんはこう述べています。

「読みながら思いました。面会でもそうだけど、40年の断絶を経て会う旧友たちとは一瞬にして時間を飛び越えてしまいます。何10年経っても人と人との関係の在り方は変わらないな、と。

 姉からみたらわたしはいつも妹であり、大学時代の仲間からすれば、私は世話好きの女学生の枠を出ていません。上級生から見れば、ひたむきなあぶなっかしい下級生であり、下級生だった旧友かられば、楽しくくっついて行ったら、とんでもない目に遭わせた先輩です。

 「出所したら文句を言わないといけないから、みんなお互いにいきていこうぜ!」などといって、「土曜会」をつくって、この10年、わたしを支えてくれています。未来やこれからを語るときは一緒に並んでいるのイに、過去も今も関係性は、そのままです。それが居心地がよくて超えられないし、また超えるきもないのですけれど。」(あとがき P234)

 1974年に主パンした本の前書きで重信房子さんはこう書かれていました。
「普通に生きている女の子が、妥協しないで自分に忠実に正しいと思ったことを追いかけてきたらここ(アラブ)に来た。
 自分に忠実である事であることが”青春”なら、”青春”とは権力者に言わせれば”犯罪”のことになったしまう。

 死ぬまで”青春”を堅持する私は、だから”犯罪者”だ。死ぬまで”革命”を堅持する私の意思は、”犯罪”なのだ。」

 読後感は「爽やか」でした。世話好きな女の子が、精一杯奮闘しているうちに、国際根拠地づくりでアラブの地へ行っていたという実話ですね。活動家時代も殆どが裏方であり「救対の重信」でした。セクトの上層部や幹部が誰もいなくなり、自分が引き受けてセクトの「国際根拠地」づくりを実際にアラブの地で「見える化」しました。

 実際にはテロ行為やハイジャックなどの罪を問われ、懲役20年の実刑を受け、2022年5月28日に出所されています。

 素晴らしいのはかつての学生時代のお仲間たちが「土曜会」というグループをつくりなにかと重信房子さんを支えてきたこいですね。「出所したら文句を言わないといけないから、みんなお互いにいきていこうぜ!」という趣旨はすばらしいです。暗さのみじんもない。


 本を貸していただき送付までしていただきました梅原孝司さんに御礼を申し上げます。高校生時代から52年間鬱鬱グズグズ考えてきた「連合赤軍と内ゲバの克服する処方箋」が、ようやく「見つかった」きがします。ありがとうございました。

 また筆者の油井りょう子さんにもお礼を申し上げます。わたしは外周にいた渦の外側で悪影響を受けた1人ですが52年間悩んできました。「土曜会」の皆さんのように明るく、言いたいことを言えるような仲間が大事である。家族も地域社会も大事であると思います。

2024年6月19日 (水)

52年間の悩みが解決するかも


 「長い長い出口のない暗闇に52年間いました。最近前方にかすかに光がみえました。それは最近「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊)と、「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読んだからでした。

 私は中学生時代から「早熟な政治少年」でした。国政選挙があれば田舎町から高知市内の各政党の選挙事務所を訪ね、チラシをもらったり、事務所に人に政治活動の話を聞きました。

 1966年4月から1969年3月迄が、中学生時代。1969年4月から1973年3月迄が4年間の高校時代でした。1973年4月から1977年3月迄が大学生時代でした。この11年間は私らより数歳上の「団塊の世代」が世界的に突出して大学で反戦運動や学園闘争,街頭へ繰り出して警察権力とミニ市街戦を展開していました。

 またビートルズやローリングストーンズらのカウンターカルチャーの時代でもありました。それまでの時代とは変化するふしめであり、今風の社会風俗の大半はこの時代に登場し流布していきました。

 わたしは彼らから数年おくれて青少年時代(疾風怒濤の時代)になりますが、ノンセクトの全共闘運動は、私らの高校時代から衰退期になっていて、その代わりにプロ集団(セクト各派)がはびこってきて、社会運動の「おおらかさ」が消え去りました。

 そして社会運動が後退局面に入るや否や、1072年2月に「浅間山荘・連合赤軍事件」がありました。毛沢東思想を信仰していた私は、思想的に崩壊してしまいました。なぜ仲間をリンチして殺害するのか。その原理が理解できませんでした。

 同じ年の11月に早稲田大学構内で一般学生の川口大三郎さんが、早稲田大学を当時支配し統制していたセクトの革マル派の活動家に執拗にリンチされ殺害されました。ノンセクトの学生が革マル派に対抗して決起し大騒動になりました。しかし自治会を支配していた革マル派は豊富な資金と武装集団を組織化し、ノンセクトの学生たちを駆逐し、リーダー格の学生にはリンチを加え再支配をしました。

 「セクトに対抗するにはセクトに入るしかない」状態になり、いつしかセクト(党派)の対立が言論ではなく、先鋭化した暴力行為、テロ行為(相手側セクトの幹部の下宿を襲撃し殺害する。)事態になり、「救殺隊」なるプロの殺人集団まであるセクトに現れました。

 相手セクトの幹部のマンションなどの居場所をつきとめ、電話線を切断し、警察に出来ないようにして、屋上から縄梯子とロープで降りてきて窓ガラスをバールでたたき割り侵入し、容赦なく鉄パイプで頭部を乱打し殺害する事件が多発しました。

 銃火器はもってはいませんが、まるで幕末時代の天誅組や新選組のような殺人専門集団を各セクトは作り上げ、対立セクトの構成員を殺害すべくかつどうをしていました。1回のテロ襲撃で100万円ぐらいコストがかかったようです。

 こうなると本来国家権力中枢部を打倒すべきところが、刃がひたすら「対立セクト委に向いて行きます。そうなれば学生集会に参加することも襲われる危険があります。社会運動や学生運動は衰退していきました。何故仲間殺しをしたり、議論ではなくお互い殺人集団を差し向け合い無限ループで内ゲバをやり続けるのか?その答えや解決策は見つけることができませんでした。

 アメリカの大学生はエリートです。その彼らがパレスチナの旗を振り、残虐なガザ市民への虐殺を繰り返すイスラエルと支援するアメリカ政府や企業を糾弾して行動をおこしています。

 コロンビア大学では50数年前の「イチゴ白書」の時代を見ているようです。現実です。アメリカ社会の健全性を垣間見ました。日本はどうなのか。自民党が驕り高ぶり政治資金疑惑で滅茶苦茶しているのに、街頭で抗議活動さうる人はごく少数にとどまっています。

 政治運動や社会運動を忌避する風潮はこの50年間ありました。私が52年間うじうじしていましたが、多くの人も声を出しませんでしたが思いは同じでした。

 「彼は早稲田で死んだ」の著者の樋田毅さんは、当時ノンセクト学生で革マル派と対峙し、リンチを受け重傷を負っています。その後卒業されて新聞記者となり退職後に当時の仲間たちを取材し、また当時対立していた革マル派の元幹部とも意見交換しています。そのレポートに感動しました。

 「重信房子がいた時代」の著者油井りょう子さんは、当時明治大学で滋野井部房子さんと一緒に活動し、身近に観察されています。生い立ちからご両親やご兄弟のことも詳細に記述されています。

「「重信房子は救対でした。対立党派のけが人にも赤チンを塗り病院へつれていきましたよ。」、マスコミで流布されたテロリストの幹部ではない。

 じっくり読んで、自分の「うじうじ」と面を付き合いわせて考えます。出口が見えるようになりましたから。

 最大あと30年の命です。無駄にせず生き抜いてみます。

2024年6月 7日 (金)

「彼は早稲田で死んだ」を読んで

71URgU+hUdL._SL1500_
 「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊)を書店で購入し、一気に読みました。その後2回読みかえしました。

 

 私にすれば1972年という年は「人生の岐路」であり、大きな出来事が個人的にも2つありました。高校入学直後からやってきた高校生運動(高校反戦会議(高1)高共闘(高2)、高校生評議会(高3))が敗北し、仲間たちは退学処分や自主退学して各高校から去りました。私だけ1人留年した年でした。

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2022/02/post-d51007.html (50年経過しても悔しい思い出(2022年の個人ブログ記事)

 

 留年が確定した頃(1972年2月頃)に「連合赤軍事件」「浅間山荘時間」ガ起きました。当時私は毛沢東思想に傾倒していました。将来は京浜安保共闘に参加し、革命戦士になると夢見る世間知らずの田舎の高校生でした。

 

 渦の中にいたわけではなく、影響を受けた田舎者にしては、連合赤軍事件は大きなショックでした。

 

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2022/03/post-b209d4.html (連合赤軍50年。2022年個人ブログ記事)

 

「なぜ些細なことで仲間殺しをするのか?」

 

「革命の名目で同志という仲間を簡単に殺害できる理由はどこにあるのか?」という疑問を持ちました。52年経過した今(2024年)でも持ち続けています。

 

 刃が国家権力の中枢ではなく、なぜ仲間に向かうのか?その理由は今でもわかりません。今なお考え続けています。

 

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html

 

(個人ブログ 連合赤軍と新自由主義の総括)

 

 総括などできないまま、鬱鬱と52年が経過しました。

 

 また1972年11月には早稲田大学構内で、当時早稲田大学を支配していた革マル派活動家達による集団リンチで早稲田大学2年生の川口大三郎さんが殺害されました。

 

 連合赤軍の仲間殺しと違いますが、早稲田大学の校舎内で、活動家でも対立セクトの学生でもない、一般学生の川口大三郎さんに執拗に暴力を加え続け殺害し、遺体を東京大学に遺棄した異常な殺人事件でした。1972年には詳しく知りませんでしたが、大学入学した1973年に「川口大三郎君殺害事件」として知りました。

 

 「彼は早稲田で死んだ」の著者樋田毅さんは当時早稲田大学の学生。川口大三郎さんのリンチ殺害事件に憤慨し、大学構内から暴力を一掃するために仲間たちと運動をされていました。

 

 著作では50年前の出来事であるのに、リアルで迫ってきます。当時は早稲田大学第1文学部、第2文学部の自治会が革マル派の重要な拠点施設でした。

 

 革マル派が早稲田大学で台頭してきたのは1960年の安保闘争の敗北後でした。早稲田大学の文学部の自治会を組織的に支配し、党派の人材確保と、活動資金の確保、自治会費文学部だけで900万円を確保するためでした。

 

 当時の1万円は今の貨幣価値ではいくらなのかわかりませんが、外食で「かつライス」が最初は170円で食べられました。今は800円です。4倍になっています。4倍なら3600万円の活動資金(文学部自治会だけで)を革マル派は早稲田大学当局から徴収していたことになりますね。凄い金額です。
早稲田大学学生大会(1946年12月)2011051600192
 1962年頃と言えば、当時早稲田の学生であった北村正志さんが「 大学の2~3年の頃「あれが内ゲバの最初」という乱闘が起こる。

 

「当時、6尺の、すぐ折れる角材やったですよ。東京中から集まってきた500人の学生がそれを持って,革マル相手に5時間も6時間もやっていた。」と北村さんは語ります。

 

http://blog.livedoor.jp/map211/archives/52375943.html
(個人ブログ記事「爽やかな北村正志さん)

 

 革マル派は以後早稲田大学を1大拠点化し、党派の人材をリクルートし、同時に自治会費などを徴収することにより豊富な活動資金も手に入れることが出来ました。早稲田の全学部や早稲田大学祭からも資金を得ていたようですから現在の貨幣価値で言うと億単位で活動資金を確保していたと言えると思います。

 

 また当時の早稲田大学当局は革マル派の自治会を「公認」し、暴力行為を黙認していました。そのことで学内の秩序を維持するために番犬」の役割を期待していたのだろう。」
(P30[暴力を黙認していた文学部当局」)という状況であったことを著作で知りました。

 

 北村正志さん達が、1963年当時革マル派と大学構内で乱闘されたとに記述がありましたが、革マル派はその年から文学部を中心に組織的に大学を支配するために浸透していったようですね。

 

 冷静に考えますとセクト活動の優秀な若い学生もリクルートできますし、資金源も確保できるので、早稲田を支配することは革マル派にはとても旨味があったと思われます。

 

 確たる証拠がないのに文学部2年生の川口大三郎さんを対立セクトの中核派活動家と決めつけ、スパイと決めつけて校舎内に拉致し、暴力行為を加えていたことは異常です。

 

 例えば武装した対立セクト同士が街頭で乱闘し、一方が勝ち、負けたセクトのメンバーが逃げ遅れ、対立セクトの「取り調べ」を受け、その中で暴力行為があるというのであれば、賛同は出来ませんが、理屈はわかります。(それでも戦争中捕虜への暴力行為はジュネーブ条約で禁止されています。)

 

 セクト同士の軍事的な衝突は「内ゲバ」なので、国家間の戦争とは異なり、ルールもなしで無制限に暴力行為はエスカレートしていきますね。

 

 暴力行為を川口大三郎さんに続けていた学生たちは、対立セクトの影に怯え、スパイ容疑をかけて執拗に暴力を繰り返していたのでしょう。
442499917_7604288256351207_3596733558485274967_n
 川口大三郎さんは革マル派学生たちの執拗な暴力で殺害され、遺体は東大病院前に遺棄されました。殺人事件として警察が動き、報道され、容疑者の革マル派学生が複数逮捕されました。

 

「大学構内の教室の中で起きた事件なのに、大学当局は、必要な措置をとらなかった。革マル派は普段から、反対派の学生や教授への暴力事件を頻繁に起こしていたのに、教室に連れ込まれたまま戻らない学生を救出できなかった。

 

 言うまでもなく教室の施設管理権は、大学当局にある。様子を見に行った2人の教員は川口君の身の危険を十分に察知できたはずであり、施設管理権を行使し、警察に出動要請をしておれば、川口君の命を救うことは出来たのだ。
 半世紀前の出来事であることを承知のうえで、大学当局の責任は免れないと思う。」(P62「第1章大学構内で起きた虐殺事件」)

 

また著者の樋田さんは革マル派の武装集団の様子を克明に描いています。

 

「50人を超える革マル派が。背丈より長い鉄パイプを持ち、一斉に地面を叩いていた。最初は。ドン、ドンと間隔を空けてゆっくりしたテンポで次第にその間隔が短くなり、最後はドドドと地響きを立てるかのように連打した後、全員が鉄パイプを水平にして、雄たけびを上げながらスロープを駆け上がってきた。まるで戦国時代の合戦のようだった。あれほどの恐怖を感じたことはなかった。」

 

「革マル派の活動家達が文学部キャンパスに入ると同時に、リュックから三段~4段階の折りたたみ式の鉄パオプを取り出し、カチャカチャと音を立てながら組み立てていた。」
(P174「牙をむく暴力」

 

 この記述を読みますと、革マル派の武装集団は、にわか仕立ての「武闘派」ではないですね。どこかで武装訓練を集団でやっているプロ集団と言えますね。鉄パイプの効果的な使用と活用の仕方を熟知しています。
444166162_7604288346351198_7707153813584937642_n
 樋田さんは革マル派活動家に大学構内で鉄パイプでめったうちにされています。

 

「突然、物陰から10人前後の見知らぬ男たちが現れた。その中で見覚えのある学生風の男が私を指さし。「こいつが樋田だ」と叫んだ。

 

 彼らはすごい形相で私を睨めつけ、明らかに殺気立っていた。上着のポケットに隠し持っていた短い鉄パオプを取り出すのを目にして、これはまずいと直感した。いつは襲われるとという予感はあったが、突然、その日が訪れたのだ。

 

 用心してはいたつもりだったが、まさか、一般の学生が往来する構内のこんなに目立つ場所で襲撃さっるとは思ってもみなかった。どこかに油断があったのだろう。

 

・・・すぐに「足を狙え」という声と共に、足首.膝、すねに一斉に鉄パイプが振り下ろされた。

 

 致命的なダメージを一瞬にして与える刃物や銃などの武器と違い、鉄パイプは殺傷効果では劣るが、それだけに何度振り下ろされることで、激痛とともに、その恐怖で心身が冒されていく。まさにあらゆる意欲が削がれていくのだ。

 

 腕と頭部にも鉄パイプで叩かれたそうです。十分な打撃を与えと考えたのか、その場から去って行った。」
(P160[鉄パイプで滅多打ちにされる恐怖」)

 

 実際に樋田さんは鉄パイプで滅多打ちにされた経験があるのでリアルです。

 

 私が通学していた大学でもセクト同士の抗争があり、私はノンセクトであり「鋭い活動家」なんでもなく、セクトの両方のメンバーと知り合いでしたので、対立を2回ぐらい止めたことがありました。

 

 「おかしなことをする奴はマグロにするぞ!」とかあるセクトの人が言いました。」私は、意味が分からず「マグロにするって何ですか?」と質問しました。

 

 そしたらセクトのリーダーは「魚市場にマグロが横たわっているよな。○○セクトに逆らえばまぐろになって地面に転がるんだよ」と説明してくれました。彼らはブレザーに短い鉄パイプを隠し持ち数人で取り囲まれたこともありました。恐怖を感じました。

 

 幸い私はセクトでの活動歴がなかったので「釈放」されました。「また革命運動を共にやろう」とか言われて別れました。

 

 後日談では、そのセクトのリーダーは対立セクトの活動家に下宿で襲われ、頭を勝ち割られて亡くなられたと聞きました。ご冥福を祈るしかありません。おぞましいことです。

 

 そして著作の後半に、筆者は「半世紀を経ての対話」を書いています。「暴力支配を象徴した人物の転身」をかかれています。

 

 その人は当時早稲田大学の革マル派のリーダー(1文自治会副委員長)の1人であった大岩啓之助さんでした。

 

 その人が「100万人のキャンドルナイト運動の創始者となり、革マル派から離脱し、大学で教鞭もとられていました。2021年にほぼ50年振りに再会し語り合われています。大岩さんの言葉を記述します。

 

「僕は人生を何かに向かって組み立てていく感じはなくて、先のことを深くj考えずかなり、行き当たりばったりで生きてきた。それは子供の時からそうだった。」

 

 大岩さんは都立戸山高校で反戦高連という革マル派の高校生運動をやっていて、2浪して早稲田へ入学されました。最初いから「幹部候補生」扱いだったらしい。「表のリーダー」として要請され学外活動もしておられ、川口大三郎さんの事件の時は早稲田大学にはいなかったそうです。

 

 ですが大岩さんは当時は「誰にも気を許してはいけないという緊張感で活動」をしていたようです。

 

大岩「一般学生を装っていろんな党派が全国から結集していると聞かされていましたから。そういう先入観があったんでしょうね。当時の早稲田は政治運動の拠点で、外部からあらゆる活動家が集まってきた。だから常に警戒していた。」

 

 後日に仲間たちとマンションで集まって会合していた時に中核派に襲われ恐怖体験もされたようです。マンションの6階の部屋でしたが、襲撃者は屋上から縄梯子で降りてきて、バールなどで窓ガラスを割られ部屋の中に侵入され、鉄パイプや木刀でめった打ちされたとのことでした。

 

 襲われた側なのに警察に逮捕され、留置されたそうです。その時に「もっとコーヒーが飲みたい」とか「いい音楽が聴きたい」とか学生運動とは無縁な欲求を生じ、その後組織を離れると組織の上司に伝えたそうです。

 

 大岩さんは「理屈で説明したら噓になる。」と言われています。

 

「人間ってそんなに筋道を立てて、そのとうりにいきているわけでもないでしょう。

 

 理屈で説明したら嘘になると思うんです。組織を去るのを止める理由をもう自分の中に見つからなかった。」(P266)

 

 大岩さんの以下の言葉には感銘しました。

 

大岩「そうは言っても、その場だけ見れば寛容は不寛容にかなわないわけですよ。絶対的に劣勢です。

 

 しかも残念なことに、この数10年、世の中はどんどん不寛容に向かっています。でもそれを押し返す力が本来、人には備わっているはずです。

 

 僕は人間の本質は寛容だと思っているんです。人類は寛容の方向に進化してきたというのが僕なりの結論です。僕は残された人生で、自分なりの性善説を広めて社会の役に立てばと思っています。」
(「不寛容を押し返す力」P281]

 

 1994年に早稲田大学は奥島孝康総長が就任して事態が変化しました。wikipediaにこう書かれています。

 

「大学側は革マル派の影響力を排除するため、1995年7月に商学部自治会の公認を取り消し、2005年3月には社会科学部自治会の公認を取り消した。

 

 また、革マル派が主導する「早稲田祭実行委員会」が、長年にわたって早稲田祭の収入や助成金を同派系の偽装サークルに1000万円単位で横流しするなどの犯罪行為を行っていたことが判明したことから、大学側は1997年から2001年まで早稲田祭の開催中止を決定し、同派系の偽装サークルの公認も取り消した(この時、公認を失ったサークルの一つに「早稲田大学新聞会」がある)。これにより革マル派は早稲田大学の資金源を失った。

 

 この大学の厳しい処分に対して、革マル派は1997年、「早稲田大学学生部長宅盗聴事件」を起こすという反撃に出て、大学側と革マル派との対立が激しくなったが、大学側は革マル派の関係者を大学から徹底的に排除するなどして、大学側の勝利に終わった。

 

 それ以降、革マル派の残党は、サークル活動などを通して巧妙に学内で一定の活動を展開しようとしているが、かつてのような影響力はほとんど無くなった。」

 

 とのことです。

 

 「不寛容な強い組織」におられた大岩啓之助さんは今では「人間の本質は寛容だ」と言われて行動されていることに希望を持ちたいと思いました。

 

 確かに今の世界を見ても「他社に不寛容な独裁者が跋扈しています。」。ロシアのプ-チン、中国の習金平、ミュンマーの軍事政権、アメリカのトランプ一派、独裁的な傾向は日本でもありますね。

 

 でも焦らずに、「寛容な世界」をこしらえたいと思います。私の場合は小さな地域社会の中ですが。つくりたいものです。

 

 個人的に52年間うじうじ悩んで来た問題は、「半分ぐらい」すっきりしました。大岩さんがいわれるように理論的に整理する総括することが無意味であることも納得しました。

 

 要は意見が異なっても、辛抱強く他社の意見を傾聴して、合意点を見出す努力をし続けることが、無意味な争いを避ける唯一の方法なんでしょう。

 

 全く利害や利権のない小さな地域の防災会や町内会の活動こそが、「合意形成の訓練」をしているのであると改めて納得しました。

 

 そこには経済団体や同業者の団体のような「均質性」などまるでなく、いろんな立場や生い立ちの人達が地域というくくりで繋がっているだけです。でもそれが「原点」であり、1番難しいことであり、1番価値があることであると思いました。

 

 そうした市民・住民の視点から底上げをしながら合意形成し、政治にも関心を持ち自治体や国に対してもきちんと発言する人間になりたいと思いました。

 

 8月18日の映画「ゲバルトの杜 かれは早稲田で死んだ」も見にいきます。

 

8月18日(日)
高知市立自由民権記念館ホールにて開催いたします。
映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』高知市上映会
代島治彦監督 原案者・樋田毅さんトークイベント
8月18日(日)
高知市立自由民権記念館ホールにて開催!
約50年前の1972年11月8日、早稲田大学キャンパスで一人の若者が殺された。第一文学部二年生だった川口大三郎君。自治会を牛耳り、早大支配を狙う新左翼党派による凄惨なリンチが死因だった。学生運動終焉期にエスカレートした“内ゲバ”の嵐。その死者は100人を超える。理想に燃えた当時の若者たちが、革命という名の下に肯定していった「暴力の論理」を今、解き明かす―。
内田樹、池上彰、佐藤優と当事者たちが“あの時代”を語り、鴻上尚史・演出の短編劇が炙り出す“内ゲバ”の不条理。
死んでいった者たちと生き残った者たちの、悔恨と鎮魂を刻印するミクスチャー・ドキュメンタリー作品です。
本作の監督 代島治彦さんと、原案本『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)の著者 樋田毅さんをゲストにお迎えして、上映&トークイベントを行います。
・・・・・━━━━━━━━━━━・・・・・
■日時:2024年8月18日(日)�※開場 9:30
�<映画上映 >
①10:00~12:14
②14:30~16:44
③18:00~20:14
�<トークイベント>
1回目 12:14~13:00
2回目 17:00~17:45�※ トークイベントは、映画の半券をお持ちの方が、
どちらか一方に参加できます。
■会場:高知市立自由民権記念館ホール�(高知県高知市桟橋通4丁目14-3)
■鑑賞料:
前売1,300円 / 当日一般1,500円 
(シニアも一般と同じ)�小中高生は当日のみ1,000円�※ 未就学児入場不可
■前売券販売所:�高知県立県民文化ホール�高知県立美術館ミュージアムショップ�かるぽーとミュージアムショップ�金高堂書店本店�コープよしだ、コープかもべ�ローソンチケット(Lコード:81665)
※シネマ四国の電話・メール・Facebook
LINEトークでも前売券のご予約ができます。
【主催・お問合せ】シネマ四国�電話:088-855-9481�メール:cinema-shikoku@sweet.ocn.ne.jp
____________________________
#ゲバルトの杜
#ゲバルトの杜彼は早稲田で死んだ
#代島治彦監督
#樋田毅 さん
#高知市立自由民権記念館
#映画 #映画上映 #高知 #イベント
#シネマ四国

 

その他のカテゴリー

2013年参議院選挙 2015年昭和秋の感謝祭「 2016年参議院選挙 2016昭和秋の感謝祭 2017衆議院選挙 2018年昭和秋の感謝祭 2018年高知県県知事選挙 2019年参議院選挙 2019年高知市長選挙 2019年高知県知事選挙 2019年高知県議会議員選挙 2019高知市議会選挙 2022年サッカーW杯 2022年参議院選挙 2022年沖縄県知事選挙 2023年二葉町総合防災訓練 2023年参議院補欠選挙 2023年高知市長選挙 2023自民党政治資金疑惑 2024nen 2024健康診断 2024兵庫県知事選挙 2024年は猛暑? 2024年東京都爺選挙 2024年東京都知事選挙 2024年米国大統領選挙 2024年総合防災訓練 2024年衆議院議員選挙 2024総合防災訓練 2024能登半島地震 2024自民党総裁選挙 2025大阪万博の防災対策 2026W杯アジア最終予選 79回目の原爆慰霊日 BCP(事業再構築計画)推進 BMI 22 EVは環境にやさしくない? EV自動車 EV車が環境に負荷? JICA研修生の皆さんとの意見交換会 monnbasu2024 NPO高知減災ネットワーク会議 SOSカード SUP体験日誌 tyosimasa U23アジア杯優勝2024年 W杯カタール大会2022 おくだけトイレ おすすめサイト おんぶらっく おんぶらっく大人用 お金をほしがる有権者がいる? なでしこジャパン まちづくり条例見守り委員会 むなしさの味わい方 よさこい祭り アジアサッカーの地殻変動 アナフィラキシーショック アメリカ政治の異常さ インド映画 ウクライナ問題 オアシス再結成 カップヌードルミュージアム カラー・ユニバーサルデザイン クーリングシェルター ゲバルトの杜・彼は早稲田で死んだ コロナ感染療養日誌 ゴミの不法投棄対策 サイエンスカフェ サイバー攻撃対策 サッカー観戦日誌 サポート詐欺 シニアは労働力 スフィア基準 スマホビジネス スマホ依存症は危険 スマホ活用防災講座 スマホ活用防災講座2024 スマホDEリレー スマホSOS通信 ダブルスタンダード テトラ投入は津波には無力 デジタル全体主義 デジタル防災無線 トイレ対策 トラック物流問題 ドン・キホーテ出店問題 ニュース ハイパーレスキュー艇・シーレックス バリアアリー住宅 パソコンの臨終とデータのコピー パソコン・インターネット ヒューマンネットワーク ピアフロート(浮体物) ピースウィンズ・ジャパン ファクトリーチェック フードバンク プレゼンの方法 ペット マンション防災会の防災訓練 メガネの走行テスト モバイルバッテリー ユニバーサルな防災・減災対策 ヨットと人生 リハビリ・ウォーキング レトルト玄米長期保存食 ロック音楽の元祖 ロープワーク 三好市との交流 下知コミュニティ・センター防災部会 下知中小零細企業BCP研究会 下知交番だより 下知交番との協働 下知図書館建て替え問題 下知地区防災計画 下知地区防災計画・ブロック会 下知地域内連係協議会 下知市民図書館改築問題 下知減災弥右衛門部会 下知減災連絡会 下知町内会連合会 下知防災紙芝居 下知CC水防対策 不当要求責任者講習会 不燃物・仕分けステーション 不燃物・資源仕分けステーション 両下肢蜂巣炎 両親の供養 中土佐町との交流 中宝永町自主防災会 中村哲さんの偉大さを示す映画 事前復興まちづくり計画 事前復興対策ランキング 事前復興計画に策定作業 事業継続力強化計画 事業継続力強化計画セミナー 事業継続力強化計画支援セミナー 事業緑強化計画支援セミナー 二液型エポキシ塗料の硬化剤の選定条件 二葉町のごみ問題 二葉町ゆかりの巨匠 二葉町内防火対策 二葉町町内会 二葉町町内会・防虫・清掃 二葉町総合防災訓練2020年 二葉町総合防災訓練2013年 二葉町総合防災訓練2019年 二葉町総合防災訓練2021年 二葉町総合防災訓練2022年 二葉町総合防災訓練2023年 二葉町自主防災会行事 二葉町自主防災会2024年事業計画 二葉町防災世帯調査 五台山・市民農園 五台山2次避難所構想 五台山2次避難構想 人助けの国際貢献 人助けの国際貢献を! 仁淀川整備計画の変更説明会 仁淀川町への広域避難訓練 仁淀川町への疎開(広域避難訓練)が全国報道 仁淀川町ー二葉町との交流事業 仁淀川町防災キャンプ 今治市防災士会・連合防災部会との交流 今野清喜さん講演会 介護入門講座 介護研修講座2024 令和5年度高知県南海トラフ地震対策優良取組事業所認定制度・認定書交付式 企業BCP 企業の災害対策 企業の社会貢献 企業版ふるさと納税 企業BCP策定講座 伝える力の重要性 低温火傷 体力ドックという仕組みはいい 体成分分析 保存食・保存食材 偉大な日本人・中村哲さんの映画 傷害のある方たちとの協働 先駆者の逝去 公共 公共インフラの維持管理 公共交通のありかたについて 公共避難施設の食料備蓄 内臓脂肪レベルの低下 内閣府・地区防災計画フォーラムIN仙台 内閣府地区防災計画 分譲マンション建て替え問題 副市長人事案件2023年 加山雄三さんは凄い 北海道地震(仮称) 医療・介護情報の共有化の必要性 南海トラフ地震臨時情報 南海トラフ巨大地震注意 南海トラフ巨大地震臨時情報・注意 南海地震情報 南海地震関係 危機管理の意識 原子力災害 原爆慰霊の日 参議院徳島・高知合区補欠選挙2023年 受援力向上セミナー 受援力(支援を受ける力) 口腔ケアの重要性 台湾は防災対策の先進国 台風・大雨対策 台風対策 台風情報 右手薬指の裂傷 吉正7回忌 名取市閖上地区との交流 名古屋大学・室井研二准教授 名古屋市南区・白水・星崎地区 嚥下障害改善食 国政との関連 国語力・読解力の向上 国際信号旗 在日外国人の虐殺事件 在日外国人問題 地区防災計画学会・高知大会2018 地域学概論 地域警察との連携 地方紙の衰退を憂う 地震保険 坂本茂雄さん県政かわら版 坂本茂雄・県政かわら版 堀川浮桟橋 堀川浮桟橋の滑り止め対策 報道関係 多様性を許容する社会 夜須沖からの津波避難 大の字泳法 大都市部の不思議な慣習 大阪の衰退 大阪万博の問題点 大阪北部地震2018 天安門事件から35年 太陽灯LED照明 女性の視点(生活者)の視点 女性部会の必要性 学生運動・社会運動の効用 学識者・大学関係者 學校安全対策課 家具転倒防止対策 家具転倒防止対策支援事業 家具転倒防止講習会 家屋の手入れ 富裕層向けホテル 岡村眞先生講演会 岸田文雄首相の退陣宣言2024 巨大地震・津波対策用高強度発泡樹脂浮力体 市民目線での減災対策 帯状疱疹 平成28年度下知地区防災計画 広域地域間連携 広域避難訓練 広報下知減災 弥右衛門公園の防災機能? 彼は早稲田で死んだ 復旧・復興対策 徳島県総合防災訓練2024 徳島県美波町との交流 心と体 性加害問題 悪路走行可能なキャタピラー台車 悪路走行可能な台車 情報セキュリティ対策 情報伝達手段 情報伝達訓練 情報班 感染症対策 戦争災害 手結福島・南地区自主防災会 排泄(排尿・排便)ケアの必要性 揺れ対策 損保会社の動向 携帯・デジカメ 摂食嚥下障害 放射線測定器 政治家の学歴詐称問題 救命艇エアーボート 救急救命法 散歩の効用 文化・芸術 文藝春秋6月号 新しい生活習慣(その2) 新型コロナウィルス感染症 新潟中越地震の教訓 旅行・地域 日本の裁判官 日本国憲法の再評価 日本国憲法の重要性 日清食品・完全メシ 日米地位協定の改定 日米地位協定の改定を 日記・コラム・つぶやき 日銀・新紙幣発行の意義目的は? 映画「ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ」 映画「スープとイデオロギー」 映画「戦雲(いくさふむ)」 映画ボレロ永遠の旋律 映画・テレビ 映画・福田村事件 春子ロス 昭和南海地震 昭和小学校の防災学習 昭和小学校の防災教育 昭和小津波避難ビル巡り 昭和校区地域内連係協議会準備研究会 暴力追放運動 書籍・雑誌 東京五輪・パラリンピック2021 東京五輪・パリ五輪のあり方 東北被災地交流ツアー 東日本大震災の罹災地から学ぶ 東日本大震災の震災遺構 核融合発電 横紋筋融解症 橋本笙子さん講演会 歯の健康維持 母を支援いただいた皆様へのお礼 母ショートスティ 母デイケア 母・春子の供養 母・春子健康情報 母・春子在宅介護日誌 母・細木病院入院 母春子の祈祷 母春子の1周忌 母西村春子・介護日誌 毛様体筋 気象庁情報の正確な伝達 気骨の自民党議員・村上誠一郎さん 水道管凍結防止対策 沖縄の貧困 沖縄・ガザ連帯集会 沖縄基地問題 沖縄返還50年 沖縄返還52年目 河瀬聡一郎氏講演会 治す介護の推進を 津波浸水仮想救助訓練 津波避難ビル 津波避難ビル巡り2023 津波避難施設について 津波避難訓練 浦戸湾三重防護整備異業 海からの受援を 海からの高台避難 海での防災対策 浸水対策備品 浸水時救命艇 滑る堀川浮桟橋問題 漫画甲子園 災害に強い熱源としてのLPガス 災害ボランティアセンター 災害大国・日本 災害後の速やかな対応 災害時の医療支援のありかた 災害時の食料確保 災害時の食糧支援事業 災害時国際貢献・支援 災害用伝言板 災害食とカップヌードル 熊本地震関連2016年 燃料デブリの取り出し 父吉正の7回忌 爽やかな経営者 牧野富太郎と植物 牧野富太郎の偉大さ 献血の検査結果 献血定年 生活を再建する活動 町内会と街路灯 略奪文化財の返還 疎開保険 発泡スチロール板 白内障と目の病気 目のメンテナンス 目指せYA体 県内大学防災サークル 県教育委員会学校安全対策課 県立大学地域学概論 真備合同研修会1210 真備町関係者との交流 眼の療養と社会復帰 眼鏡がいらない生活? 眼鏡による視力調整 眼鏡の調整は難しい 研修会・講習会 硝子体切除術 神戸市長田区鷹取との交流 神戸市長田区鷹取東地区との交流 福祉事業所との防災連携 福祉防災を学ぶ 禿鷹大手資本の高知進出 私の腰痛 科学で説明できない人間の体 窓ガラス飛散防止講習会 立体換地 立憲民主党代表選挙2024年 精神分析の基本 紙媒体 紙媒体・二葉町防災新聞 紙媒体二葉町防災新聞 終活セミナー2024 経済・政治・国際 統一教会問題 老木倒壊の危険性 老舗飲食店の閉店は悲しい 耐震護岸工事 耐震貯水槽活用問題 聴覚障碍者との情報共有 育児 能登半島地震 脂質異常症 脱水症対策 脳が浸疲れる。脳が追われる。 脳ドック診断・脳トレ 脳幹トレーニング 臨時情報 自主防災会の交流事業 自主防災会同士の交流 自民党裏金問題 自治体との協働 自然災害と企業の法的責任 自然高台津波避難場所 自衛隊の救助訓練 芸術の鑑賞 若いアーティストの台頭 蓄光塗料 蜂に刺された 西日本豪雨災害・真備町 西村吉正・春子服薬情報 西村春子逝去 要介護は突然に 要支援者用食材 親しい人の葬儀は辛い 観天望気・日常の観察と天気予報 訪問看護 認知機能検査 認知症の早期発見・早期治療 認知症症候群関連 誤嚥性肺炎対策 警察広報 豊後水道地震 起震車体験 超高齢化社会の問題 超高齢者の事前減災対策 軍拡と平和 転ばぬ先の介護 近江商人の先見性 過脂肪体質 過脂肪症 遠地津波 避難所の改善 避難所の食事問題 重信房子がいた時代 長期浸水救助救出計画 長者キャンドルナイト 閖上だより 関東大震災から100年 関東大震災時の朝鮮人虐殺 防災マップづくり 防災世帯調査 防災備品の管理 防災備品整理棚 防災啓発懇談会 防災啓発用 防災啓発用映画 防災啓発番組 防災士 防災対策予算減額 防災対策先進地黒潮町 防災専門職の行政配置 防災炊き出し訓練 防災用品展示会 防災省構想 防災紙芝居 防災紙芝居プロジェクト 防錆対策・防錆塗装 防錆管理士の視点 阿部晃成さん講演会 陸上自衛隊手漕ぎボート 雪道・凍結道・高知自動車道路対策 電源の確保 震災語り部管野和夫さん 非常備蓄用ミキサー粥 靴底消毒 音楽 音楽文化 音楽業界 食事情報 飲料水の備蓄 香南市手結・福島・南地区 高知HOTARUプロジェクト 高知の結婚披露宴 高知大学との協働事業 高知大学防災すけっと隊 高知市みどり課 高知市地域コミュニティ推進課 高知市地域防災推進課 高知市政 高知市津波SOSアプリ 高知市社会福祉協議会 高知市総合防災訓練 高知市自主防災組織連絡協議会 高知市議会 高知市長との意見交換会 高知市長との意見交換会資料2015年 高知市防災士会連絡協議会 高知市防災政策課 高知県初の疎開(広域避難)訓練 高知県危機管理部 高知県土木部 高知県地産・地消課 高知県政 高知県看護協会 高知県立大学との協働 高知県議会 高知県高校生津波サミット学習会 高知県高校生津波サミット2023 高知県高校生防災サミット 高知警察署下知交番 高知HOTARUプロジェクト 高知JC70s融年 高齢者・認知症対策 黒潮町合同研修会2025 2013年SUP同窓会 2015年統一地方選挙・県議・市議 2016W杯アジア最終予選 2016年熊本地震 2016年熊本地震関係 2021年衆議院議員選挙 2023年東京見聞録 2023年県議会議員選挙 2023年高知市議選 2023年高知市長選挙 2024年アメリカ大統領選挙 2024年二葉町総合防災訓練 2024年防災キャンプの中止 2024種議員選挙の予測 2024能登半島災害 70歳のスタート 8月14日の自己責任の失火について A型RHマイナス型血液 AIが作る未来 AIが作る社会 NPO高知市民会議(防災)