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2024年7月 3日 (水)

終活セミナーは大変参考になりました。

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 2024年6月29日(土曜)は、高知市下知コミュニュティ・センターにて「始めよう!終活 あなたらしい人生を送るために」が開催されました。講師は櫻本智子さん(一般社団法人終活カウンセラー協会・認定終活講師、厚生労働省認定・1級葬祭ディレクター)でした。

 講演会の段取されたのは下知コミュニュティ・センター職員の氏原香澄さん。事前に氏原さんにご紹介を受け面談していたこともあり、場違いのお爺さんですが参加させていただきました。20人が参加されていました。
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 「終活」という言葉が私のなかで「いい言葉」と思えるようになったのはつい最近です。実は私は18歳ぐらいから今に至るまで、1972年2月の連合赤軍事件と1972年11月の早稲田大学での川口大三郎リンチ殺人事件後の内ゲバ殺人の蔓延に悩み、52年間くよくよと人生を過ごしてきました。

 2018年に父が99歳、2022年に母が97歳で他界しました。親不孝者ゆえに、両親の在宅介護は家内の支援も得て、きちんとしました。両親の寿命からしても「あと30年」の人生です。私なりに自分尾関わった社会思想や社会運動を総括し、就活しませんと「死んでも死にきれない想い」がありました。

 桜本智子さんは講義テキストの中で的確な言葉で表現されています。私の「くよくよ人生52年のくらい長いトンネルからの脱出と共通しています。

「終活を始まるにあたり、自分の人生の棚卸をすませてから、その中ですぐにとりかかれること、出来そうなことを選択し、「不安」江尾「安心」に変えることからはじめましょう。「終活」は非常に分野が広く、様々なことがからみあっています。また、人によって環境や考えも全く違います。」

 最近ようやくわたしも今年になって「長い暗い52年間閉じ込められていたトンネルから出口の光がかすかに見えてきました。それは2冊の著作との出会いでした。

 最近私は2冊の著作を熟読しました。1冊目は友人に借りた「重信房子がいた時代」((油井りょう子・著・世界書院刊)でした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-b83a12.html

 2冊目は「彼は早稲田で死んだ」((樋田毅・著・文藝春秋刊)でした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2024/06/post-a3dfc5.html

 著作者はプロのライターであり、50数年前の社会運動の当事者であり、渦の中におられた人たちでした。「古い時代の出来事」「思い出」とせず、当事者たちに向き合い、取材し、原稿を推敲して記述したノンフェクションの作銀でした。同時代に渦の外周に居た田舎者の私は、2冊の著作を読んで、「半分ぐらい」救われました。
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 ですので「最長30年の人生」をフル活用し、自分自身の終活をしたいと思った次第です。

 さて桜本智子さんの講演は素晴らしい内容でした。講演で話された内容をまとめてみました。(というか印象に残った言葉を書き留めました。)

「終活とは。終焉(しゅうえん)を考えることを通じて自分を見つめ、今をよりよく、自分らしく生きる活動」(一般社団法人終活カウンセラー協会)

「終活という言葉は2008年頃つくられました。今でも死についての準備をすることなど考えたくないと思い込んでいる人が多い。
 生まれた人は誰でも必ず終末が来る。最後の事を考えると人の人生は楽しくなる。」

 桜本さんは、講演のテキストで5つの設問を書かれていました。

「①あなたはいま人生を楽しんでいますか?」

「②あなたにとっての人生の目的は何ですか?」

「③あなたが今不安なことは何ですか?」

「④あなたが大切な人に伝えておきたいこと、残しておきたいことは何ですか?」

「⑤何かあった時に相談できるひとはいますか?」

「身近な終活の3原則とか

1)家の中の危険を点検・排除しましょう。

  「ぬかずけ」を守ろう。「濡れているところ」「階段には注意」「かたづけしてつまずかない」ことです。


2)財産の把握をしましょう 預金通帳。クレジットカード、各種カード類の整理をしましょう。

3)定期的な健康診断をしましょう。死ぬまで元気で人生を楽しむことが、主かつ最大の目的です。」
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 「あと30年お人生を全力で生きる。」と決意した私と同じ波長ですね。

 去年70歳になりました。「立派な高齢者」になりました。

 2024年1月は両目に障害が出て正月早々2回手術、入院、療養、視力調整していました。5ヵ月かかりました。さあこれからだという時に、6月17日に窓の金具に右手薬指を挟み裂傷。翌日皮膚科で「手術」をし、全治3週間の診断。今年は6か月間「足踏みしました。」仕方がありません。老化も認めます。いつまでも若くはありませんから。

 私の考え方と桜本智子さんから教えていただいた「終活」の考え方は違和感はありませんでした。ありがとうございました。講演会を情報提供いただきました氏原香澄さんに感謝します。

2024年6月21日 (金)

「重信房子がいた時代」を読んで

 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。
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「集団になると、人は考え方が浅くなって非論理的になってしまう。あさま山荘事件を含む連合赤軍によるリンチ殺人から始まる一連の事件は、その典型だと思うね。

とにかく閉鎖された集団の中で、非常に強い権力性を帯びたリーダーがいて、過度のストレスを全員が持っている。こういう状況で人は判断できなくなる。あとから『なんであんなことをやってしまったのか』と後悔する。
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こういうことはたくさんある。日本史にも世界史にもね。そうしたことを端的に示す事件だったと思う」(映画監督・森達也氏談)NHK記事より)

 とにかく私が高校を留年した1971年2月に引き起こされた「連合赤軍・あさま山荘事件」と1972年11月に「早稲田大学構内で革マル派による一般学生川口大三郎さんへのリンチ殺人事件」から連なる際限のない内ゲバ殺人抗争が激化し、日本社会から「社会運動」「政治闘争」が、2つの「ブラックホール」に吸い込まれ消滅しました。

 私個人は「連合赤軍」や「内ゲバセクト」の渦の渦中にいたわけではなく、大きな影響(悪影響)を受けた渦の外周に居ただけの人間です。ですが渦巻は渦の外周ほど高速で回転します。強い悪影響を受けながら、鬱鬱とこだわり続け、貧弱な頭脳で1972年から52年間考え続けてきました。

考えたことは、「なぜ日本の新左翼セクトは仲間殺しをし、セクト同士で連携することなく、殺し合いを際限なくするのだろうか?中国は敵対していた共産党と国民党が連携して抗日軍をこしらえました。その動きのかけらもないのはなぜなのか?」でした。

 個人ブログで「連合赤軍と新自由主義の総括」なるタイトルをつけ、10年以上前から考え続けてきました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html
(連合赤軍と新自由主義の総括)

 最近読んだ2つの著作「「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊)と「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。すべて解決したわけでもないですが、2つの著作は私の悩んでいた52年間とリンクしています。長い長いトンネルの出口のかすかな灯のように思いました。

 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)の読書感想文です。一読して。重信房子さんは、「普通の生活者感覚のある人」「1960年代後半から1970年代初頭の激動の時代の渦の中にいた人ですし、著者の油井さんは、重信房子さんの生い立ちから家庭環境、学生生活も丹念に描いていますので、人物像がわかりました。

 私は最近はYouTubeで重信房子さんの出演する中東情勢を解説する番組を時折も見るようになりました。

「私たちがパレスティナへいったころは、旧ソ連の支援がパレスティナにあり、パレスティナの青年は旧ソ連で高等教育を受け大学に進学し医師になる人もいました。受け入れてくれる素地はありました。」

「イスラエルがレバノンに侵攻した1982年以降は、中東に居ずらくなりました。また旧ソ連が崩壊した1989年以降は支援も少なくなりました。」

「1995年にイスラエルとパレスチナの共存を国是としたラビン首相が暗殺されました。1996年に台頭したのがパレスチナ国家を認めないネタニエフでした。これ以降は対立と分断が始まります。」

 重信房子さんはYouTubeで明瞭に解説してくれました。なるほど。という感覚でいたところ、偶然友人が「重信房子がいた時代」を貸してくれました。「家内の親戚の人が書いたノンフェクション。手元に1冊しかないのを送る。読んだら返却してほしい。」とのことでした。

 稚拙な読書感想文です。印象に残った言葉を書き出しました。

「ねえ、あなた髪型かわったわね。」

重信房子は、私にそういった。アクリルの窓越しに手と手を合わせたあと、いきなり、

「昔はもっとボーイッシュで、すごく短かったじゃない。その印象が強いの井よ、それから目も変わったわね。ほら昔はもっと細かったじゃない。」

「しわが出来て、ふかくなったんですう」

 そんなことを返しながら、重信房子も、ただの、ふつうの叔母さんじゃん、と思うと笑いがこみあげてきた。

 ほぼ40年ぶりに面と向き合って、言葉を交わす、その話題がこんなとことから始まるとは、さっきまでの気鬱は何だったのか、と力が抜けた。」(40年振りの再会 P11)

「房子がアラブに向けて出国したのは1971年。赤軍派の結成は69年8月23日だが、その前から房子は大学を離れて党派活動に専念するようになっているはずだ。そのときから、私が房子と会う機会はなくなった。

 したがって、この再会葉41年ぶりでもあった。しかも親しくしていた時期は67年から68年にかけてのわずか2年足らずである。一緒に歩いた土地も、駿河台のせいぜい半径2キロぐらいのものだ。

 同志でもない私には、共有する記憶はわずかなものだ。この空白はどう埋めたらいいのか。そもそも埋めることはできるのか。話すこともなく、会話が途切れてお互い気まずい思いをするのではないか。ドラマや小説の再開のシーンを浮かべてなぞらえようとした。

 ところがいきなり髪型の話である。(中略)41年間の空白はあまりにあっけなく消えた。その41年前の事、今のこと、年相応のしみやしわ、白髪のこと。脈路なく話は結んだりほどかれたりして、わずか10分ほどの面会時間は終わった。

 帰りの電車の中で思い出した笑顔は、40年前と変わらなかった。目も口元も、学生時代と何1つ変わらなかった.」

「ねえあなたは誰が好きなの」房子は唐突に話しかけてきた。

  中略


 あのころ、汚い研(文学研究会)のサークル室で、彼女の白い肌はきわだっていた。ピンクの口紅がよく似合っていた。おっとりした問いかけだったが、いい加減な返事を許さない強さがあった。

 文学サークルで「誰が好きなの」と問われれば、あのころは、カフカ、カミュ、吉本隆明、埴谷雄高、・・。そして大江健三郎とたいていの学生は答えた。しばらく前まで高橋和巳が明治の助教授に名を連ねていたこともあり、よく読まれていた。実際に私たちの周りでは、文庫本になったばかり「散華」手に高橋勝巳の名を連呼しているものがいた。

 そんな中で、私が「谷川俊太郎とか富岡多恵子です」と答えたものだから、房子は、一瞬とまどった。私の言った詩人を知らないのだなと私は思った。ところが彼女はすぐに人なつこい笑顔でいった。

「えっほんとに。私も詩を書いているのよ。現代詩を。今度見せてあげる。あなたもみせて。」その時たまたま部屋に行ってきた男子学生を紹介しながら、私と彼の両方にいった。

「ねえNくん。彼女も現代詩ですって。Nくんは鮎川信夫をよくよんでいるのよ。「荒地」の詩人の井戦争体験や詩に惹かれるんですって」P14

 1967年・68年頃のブント系(社学同の影響の強かった明治大学の学生の傾向なのか、当時全共闘世代と言われた多くの学生たちの流行の読書傾向なんでしょう。

 わたしは重信さんより8歳、著者の油井さんより6歳年下です。67年・68年は田舎の中学生でした。1970年の高校2年生の時、高共闘をやっていた追手前高校の連中が吉本隆明がどうしたとか言うていました。私は田舎の高校生でしかも毛沢東主義者でしたので興味はありませんでした。
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 1973年に大学へ入学して、入部した文科系サークルがブント系の傾向いうが強く、その時期に吉本隆明、埴谷雄高、高橋和巳、などを読みました。荒地の詩集も読みました。鮎川信夫もです。「自由闊達」という雰囲気でした。
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 1973年の夏ごろまでは、ノンセクトの学生たちの運動が、早稲田大学でもセクトである革マル派を凌駕するのではないかという勢いがありました。しかし夏休みが終わり秋になると革マル派は武装集団として「プロ化」し整然とした武装集団に変身していたようです。

「50人を超える革マル派が。背丈より長い鉄パイプを持ち、一斉に地面を叩いていた。最初は。ドン、ドンと間隔を空けてゆっくりしたテンポで次第にその間隔が短くなり、最後はドドドと地響きを立てるかのように連打した後、全員が鉄パイプを水平にして、雄たけびを上げながらスロープを駆け上がってきた。まるで戦国時代の合戦のようだった。あれほどの恐怖を感じたことはなかった。」

「革マル派の活動家達が文学部キャンパスに入ると同時に、リュックから三段~4段階の折りたたみ式の鉄パオプを取り出し、カチャカチャと音を立てながら組み立てていた。」
(P174「牙をむく暴力」彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊より。

 結局組織化してきたセクト(党派)の武装集団に対抗するためには、セクトの武装集団でない対応できない時代となり、口論や論争で対立する相手をやりこめるのではなく、暴力行為で相手セクトの幹部を殺害する行為を繰り返すようになりました。

 思想の左右を問わず、「異論を排除し、時に暴力的に排除し、殺人行為もしでかしてしますことが常態化する。」異常さが52年前の日本の新左翼党派(セクト)にありました。これでは問題意識を持ち、デモや集会に参加しただけの学生一般は、ついていけるはずもなく、必然的に政治闘争、社会運動は日本社会から衰退し、広く支持を得ることが難しくなりました。「政治」に無関心な市民が増大し、「改革」を標榜する自民党清和会政治を容認し、格差社会を拡大することに結果として加担するようになりました。

 油井りょう子さんは、重信房子さんのご家族(両親や兄弟)や生い立ちなども丹念に記述されています。お父さんは若かりし頃、極右団体血盟団のメンバーでありました。15歳も年が離れた奥さんと結婚し、敗戦後は夫婦で食料品店を世田谷で開業し、懸命に家族力を合わせて生きていました。

 重信家の兄弟姉妹は皆成績優秀で大学進学をしたかったようでしたが、商業高校や工業高校に進学し、卒業し大手企業へ就職しました。重信房子さんも商業高校卒業後は、大手食品メーカーのキッコーマン醤油に就職しています。

 高校時代に文芸部に入部しました。自作の小説を書くだけでなく行動力もあったようです。

「高校時代には、武者小路実篤の「友情」を読み、その作家に会いに行った。そこで、作家に向かって「ヒロインの杉子は民主的ではない」などと面と向かって批判した。

 大作家は、台所でお茶の用意をいしている妻に聞こえるように、笑いながら大きな声で言った。「おい、杉子は民主的ではない、とここにいるお嬢さんがいっているよ」
 杉子という女性は、その頃の作家の妻がモデルだったからだ。批判したお嬢さん、房子のために大作家は色紙まで書いてサービスまでしてくれたという。」(文豪に会いに行く P41)

 単なる文学少女だけでなく、物おじしない行動力も備えていたようですね。感心しました。

 また重信房子さんの兄弟姉妹は地域社会の現実と真摯に向かい合っていました。

「先にもふれたが、房子の家の近所に朝鮮人の部落があった。近所の大人は,子供たちにそこへは「近づくな」とあからさまにいった。1950年6月から53年7月迄の朝鮮戦争の影響もあった。
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 しかし、房子の長兄が自転車に乗っていてチンピラに因縁をつけられたとき、一家を守ってくれたのは、この集落の人々であった。好奇心旺盛な房子達きょうだいは、関心を持って集落の人々の暮らしや、自分たちと違う風習を見つめた。

 春、桜の季節になると、集落の人々が、馬事公苑に繰り出すのです。そして、太鼓を鳴らし、手拍子をとって」にぎやかに歌い、踊っていました。華やかな服装とにぎやかな踊りと、ふだんの暗くくすんだような暮らしとの差が、あまりに大きいので、毎年、驚いてみていました。と房子は振り返る。」(P44「戦後民主主義の申し子」)

 わたしも小学校低学年時代に大阪にいました。経済格差がある地域でした。上流の家庭は、母親は女子大卒で専業主婦。子供にが大学生の家庭教師をつける環境。そのお母さんたちが「あそこへは行かれん」と言っていたのは地域内の朝鮮人集落でした。私は転校生でしたので両方の地域で友人がいました。

 朝鮮人集落のご両親は共働き家庭。母親は在宅せず、アパートの鍵を子供に持たせていました。「かぎっ子」という言葉を初めて知りました。うちの母も土地らの地域の子供も差別せず、おやつを出していました。重信家も健全な過程であったと思いますね。

子云う高3年生の時は「小さな親切運動」を夏休み返上で懸命にボランティアをしているところを新聞に取材され、記事になっていたそうです。

「このころの房子の活動は、あくまでもけなげな正義感からホームルームでリーダーシップをとるという範囲でしかなかった。外へ向かって行動し、発言しても、だれひとり傷つけるわけでもなく、自分も傷つかず、大人たちからも好意を持たれ、優等生のお嬢さんが、勉強と両立できる健全な活動の範囲だった。

 こんな生徒はどのクラスにもひとりはいたはずだ。こうしたかつどうがのちの「国際テロリスト」の萌芽と見ることは誰にもできないだろう。むしろ、戦後の民主教育が理想とした、貧しさに負けず、いわれなき差別に挑み、真っすぐ明るく頑張る女学生の姿そのものではないだろうか。」(P47[戦後民主主義の申し子」

 重信房子さんは1964年の高校を卒業し、キッコーマン醤油に入社されました。そして翌年「教師になりたい」夢をかなえる目的で1965年明治大学2部(夜間)文学部に入学されました。

 昼間は会社勤務。夕方は夜間の大学生。いろんな職種の学生がいて刺激になったようです。その後1960年代後半のうねりのような社会運動が世界的に先進国で起きましたが、サークル活動や自治会活動、社会運動の大波が到達してきて重信房子さんも影響を受けて、思想信条も変化して行きました。
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 1965年の日韓闘争、学費値上げ反対闘争、1966年の各大学での全共闘運動やベトナム反戦闘争、1967年、1968年頃には、社学同(ブント系)の運動に影響されていきました。

「集会やデモに房子は参加していた。しかし房子は表には立たず、つねに「救対」であった。応急処置をする包帯や赤チンの入った救急箱を手にして、セクトを超えて救援に(救護)対策にはしりまわっていたのである。デモの後ろにいて、傷ついた学生や労働者を手当てする。それは明治の学内や関係者に限らなかった。」(「救対の重信」P86)

 また闘争は思い付きで始まる。「1968年6月21日で社学同の委員長のMがパリのカルチェラタンのようなものだ。やれるのはやはり明治だろう。中央では社学同集会やって呼応させるから」

 明治大学の学館から長い机を運び出し、御茶ノ水駅から駿河台へ通じる明大と売りに並べてバリケードを築こうというのだ。車の往来の激しいそのとうりの真ん中に机を置くのだ。

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 またたく間に開放空間が出来上がりました。早速「解放区」「反安保・反戦の砦。神田カルチェラタン解放中」などの立看板を御茶ノ水近くの道真ん中に立てました。」(神田カルチェラタン P104)

 記述されている文字をなぞっていても楽しい。ほんのわずかな時間でも「解放区」が出来たことが楽しいです。社会運動や闘争は明るく他の良くないといけない。

油井さんはこう記述しています。「房子が熱い思いで振り返った神田カルチェラタン闘争。社学同が掲げ、現思研がリードし、市民を巻き込んだ、この戦いの熱気はいったいなんだったろうか。あの時代の闘争の1つだったのだろうか、それともまぼろしだったのか。あの時代に、あのキャンパスにいた一人として、私は、遠い日の物語であり,やはりまぼろしだったのだとしか思えない。」(P104)

 幻であれ何であれ、「解放区」を日本で大学構内ではなく、神田の路上で体験したことは羨ましいです。そういう体験を私はしたかったです。後にも先にもそういう「解放区」は日本史ではなかったと思います。

また重信房子さんの父親の重信末夫さんは、青年時代血盟団の筋金入りの右翼青年でした。1967年の羽田闘争の顛末を家族に熱く語る房子さんに末夫さんはこう言われたとか。

「房子本気で革命をやるなら、あのようにやってはいかん」

 中略

「本気で革命をやるなら、まず民心を重んじなければならぬ。民族の心を知らぬ者が世界革命を唱えても、それはコスモポリタンにすぎぬ。
 井上日召は1人1殺主義と言われているが、そうではなく、1殺多生は1人ではできぬ。」(「父よ娘の革命」P113)

「革命とは死ぬことを見つけたり」と思っているんだ。革命の途中で死ぬのはやむをえない。同志の死は革命の捨て石ですよ。捨て石がなければ革命なんかできないのいだから。
 
一般市民の死、負傷はやむをえないことである。革命をやる以上犠牲者はでるのはしかたがない。

 ただし、内ゲバをやるような下衆な根性では革命が出来るのか。出来や市内四・そんなもの」と吐き捨てている。」(PO1269

 やはり本物の革命戦士には、内ゲバは堕落であり、排すべきものであるという真摯な心意気があります。本物ですね。

 大学では1969年は全共闘運動が退潮し、学生運動が変質し始めた時期だったようです。油井さんによりますと重信房子さんは、キッコーマンは1年半ぐらいで活動と両立は難しいということで退社されましたが、サークルに活動、学生運動、アルバイトの多忙な日々でありながら大学は4年で卒業、しかも教職課程も取得していました。更に政経学部3年に学士入学しています。それは専従のプロのセクトの活動家ではないと大学当局が判断したからでしょうと油井さんは記述しています。

 教師になりたかった重信房子さんですが、取り巻く状況はそれを許さないようになっていったようです。1969年に全共闘運動の衰退もあり、ブントのなかで「武装闘争」を主張する関西派が台頭し赤軍派を結成します。

 1969年11月に武装訓練をすると大菩薩峠の福ちゃん荘に集結していた赤軍派主力部隊50数名が全員逮捕されました。

 1970年3月に田宮など9人の赤軍派がよど号をハイジャックし北朝鮮に飛びました。本当の目的はキューバでしたが北朝鮮は寄り道でした。「俺たちは明日のジョーになる」という漫画的な事件でした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-647d.html
(個人ブログ「われわれは明日のジョーである」2009年5月4日)

 1971年2月に赤軍派の1部と毛沢東主義者の京浜安保共闘が合体した連合赤軍があさま山荘事件を引き起こし、無残な仲間殺しが露呈されました。重信房子さんと明大二部文学部で親友だった遠山美枝子さんは惨殺されました。

 重信房子さんは1971年3月に中東のベイルートに到着されていました。


WIKIPEDIAで検索しますと「日本赤軍」の活動履歴が出てきます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8F%8D%E6%84%9F%E3%81%A8%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%AE%E5%85%88%E7%B4%B0%E3%82%8A

 記述は不確かな部分もありますが、「活動年表」的なものがないと、なにせ50年から40年前の出来事なので、こちらも記憶が定かではないので、事実誤認は避けたいので、検索してみました。

 1969年頃からノンセクトの広範な社会運動(全共闘運動)が退潮傾向になり、70年安保闘争はセクト主導になりつつありました、革共同中核派、革マル派、社青同解放派、ブント(共産主義者同盟)は分裂し、戦旗派、叛旗派、ML派、赤軍派などに分れつしていきました。

 記憶が正しければ赤軍派は「前段階武装論」とか「国際根拠地論」にもとづいた武装闘争優先の党派でした。ですが主力部隊と幹部の大半が1969年の大菩薩峠のふくちゃん荘の合宿所で逮捕されました。

 1970年の「残党の」田宮ら9人がよど号をハイジャックして北朝鮮経由でキューバへ行く予定でした。「国際根拠地論」に戻付いて行動であったgと思います。

 国内に残された赤軍派の中堅幹部の森恒夫は、思想信条の全く異なる毛沢東主義者集団の京浜安保共闘と結託し、連合赤軍を結成し、「国内山岳アジト」で、日本国内での武装闘争を仕掛けようといしていました。

 最高幹部絶対主義と些細な主張の違いを許さず「総括」と称して、仲間にリンチを加え殺害する行為を繰り返していきました。「神田カルチェラタン」のおおらかさなどみじんもない、息苦しい閉ざされた閉鎖組織になってしましました。重信房子さんの明大時代同じサークルで親友だった遠山美枝子さんはそのなかで惨殺されました。

 1971年3月に重信房子さんたちは「国際根拠地」を求めて少数の仲間たちと中東ベイルートに居ました。1970年代は、ハイジャックや武装闘争など「日本赤軍」は活動を激化させた時代がありました。

 何故アラブなのかは油井さんも含め文研や明治大学の仲間たちもさっぱりわかりませんでした。その理由を油井さんはこう書かれていました。

「なぜが、少しずつわかるようになったのは、04年の房子の公判を通じてだ。房子は、1月27日の第40回公判で述べている。

「(よど号事件に関連して)逮捕されて出てきた後、実際には、もう自分にやれることは余りないな、やめようかなということで、迷惑ばかりかけて力になれないから、もう1回学校へ戻ろうかと思ったんですけど、もっとひどいというか、誰もいなくなってる状態でだったんで、ぜひ国際部を引き受けてほしいと、国際部のキャップに言われまして、それを手伝うという形で協力しましyた。」(P147「国際根拠地づくり」)

 中略

「そしてなぜアラブだったのかと弁護人に重ねて問われて、房子はベトナムと比較して答える。ベトナムは陣地もあり。国家という後ろ盾もある戦いであり、義勇兵として参加を希望したものに対しては、自国の帝国主義と闘ってくださいという立場をとっていて、それは1国の革命解放で完結していく戦いであった。

 しかしパレスティナ問題というのは知れば知るほどい、世界革命なしでは解決できない。で、世界党、世界赤軍、世界革命戦線というように主張してきた赤軍としては、まさにパレスティナの戦場を戦いの根拠として、世界は新しくうまれかわるんではないかと、そういう非常に大きなインパクトを持ったイメージに受け止めました。」(P149)

 結果的に赤軍派の「国際根拠地論」を「まがりなりにも」「見える化」できたのは、重信房子さんが国際部をしぶしぶ引き受けたからであったと思います。

 「あとがき」で重信房子さんはこう述べています。

「読みながら思いました。面会でもそうだけど、40年の断絶を経て会う旧友たちとは一瞬にして時間を飛び越えてしまいます。何10年経っても人と人との関係の在り方は変わらないな、と。

 姉からみたらわたしはいつも妹であり、大学時代の仲間からすれば、私は世話好きの女学生の枠を出ていません。上級生から見れば、ひたむきなあぶなっかしい下級生であり、下級生だった旧友かられば、楽しくくっついて行ったら、とんでもない目に遭わせた先輩です。

 「出所したら文句を言わないといけないから、みんなお互いにいきていこうぜ!」などといって、「土曜会」をつくって、この10年、わたしを支えてくれています。未来やこれからを語るときは一緒に並んでいるのイに、過去も今も関係性は、そのままです。それが居心地がよくて超えられないし、また超えるきもないのですけれど。」(あとがき P234)

 1974年に主パンした本の前書きで重信房子さんはこう書かれていました。
「普通に生きている女の子が、妥協しないで自分に忠実に正しいと思ったことを追いかけてきたらここ(アラブ)に来た。
 自分に忠実である事であることが”青春”なら、”青春”とは権力者に言わせれば”犯罪”のことになったしまう。

 死ぬまで”青春”を堅持する私は、だから”犯罪者”だ。死ぬまで”革命”を堅持する私の意思は、”犯罪”なのだ。」

 読後感は「爽やか」でした。世話好きな女の子が、精一杯奮闘しているうちに、国際根拠地づくりでアラブの地へ行っていたという実話ですね。活動家時代も殆どが裏方であり「救対の重信」でした。セクトの上層部や幹部が誰もいなくなり、自分が引き受けてセクトの「国際根拠地」づくりを実際にアラブの地で「見える化」しました。

 実際にはテロ行為やハイジャックなどの罪を問われ、懲役20年の実刑を受け、2022年5月28日に出所されています。

 素晴らしいのはかつての学生時代のお仲間たちが「土曜会」というグループをつくりなにかと重信房子さんを支えてきたこいですね。「出所したら文句を言わないといけないから、みんなお互いにいきていこうぜ!」という趣旨はすばらしいです。暗さのみじんもない。


 本を貸していただき送付までしていただきました梅原孝司さんに御礼を申し上げます。高校生時代から52年間鬱鬱グズグズ考えてきた「連合赤軍と内ゲバの克服する処方箋」が、ようやく「見つかった」きがします。ありがとうございました。

 また筆者の油井りょう子さんにもお礼を申し上げます。わたしは外周にいた渦の外側で悪影響を受けた1人ですが52年間悩んできました。「土曜会」の皆さんのように明るく、言いたいことを言えるような仲間が大事である。家族も地域社会も大事であると思います。

2024年6月 7日 (金)

「彼は早稲田で死んだ」を読んで

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 「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊)を書店で購入し、一気に読みました。その後2回読みかえしました。

 

 私にすれば1972年という年は「人生の岐路」であり、大きな出来事が個人的にも2つありました。高校入学直後からやってきた高校生運動(高校反戦会議(高1)高共闘(高2)、高校生評議会(高3))が敗北し、仲間たちは退学処分や自主退学して各高校から去りました。私だけ1人留年した年でした。

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2022/02/post-d51007.html (50年経過しても悔しい思い出(2022年の個人ブログ記事)

 

 留年が確定した頃(1972年2月頃)に「連合赤軍事件」「浅間山荘時間」ガ起きました。当時私は毛沢東思想に傾倒していました。将来は京浜安保共闘に参加し、革命戦士になると夢見る世間知らずの田舎の高校生でした。

 

 渦の中にいたわけではなく、影響を受けた田舎者にしては、連合赤軍事件は大きなショックでした。

 

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2022/03/post-b209d4.html (連合赤軍50年。2022年個人ブログ記事)

 

「なぜ些細なことで仲間殺しをするのか?」

 

「革命の名目で同志という仲間を簡単に殺害できる理由はどこにあるのか?」という疑問を持ちました。52年経過した今(2024年)でも持ち続けています。

 

 刃が国家権力の中枢ではなく、なぜ仲間に向かうのか?その理由は今でもわかりません。今なお考え続けています。

 

 

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html

 

(個人ブログ 連合赤軍と新自由主義の総括)

 

 総括などできないまま、鬱鬱と52年が経過しました。

 

 また1972年11月には早稲田大学構内で、当時早稲田大学を支配していた革マル派活動家達による集団リンチで早稲田大学2年生の川口大三郎さんが殺害されました。

 

 連合赤軍の仲間殺しと違いますが、早稲田大学の校舎内で、活動家でも対立セクトの学生でもない、一般学生の川口大三郎さんに執拗に暴力を加え続け殺害し、遺体を東京大学に遺棄した異常な殺人事件でした。1972年には詳しく知りませんでしたが、大学入学した1973年に「川口大三郎君殺害事件」として知りました。

 

 「彼は早稲田で死んだ」の著者樋田毅さんは当時早稲田大学の学生。川口大三郎さんのリンチ殺害事件に憤慨し、大学構内から暴力を一掃するために仲間たちと運動をされていました。

 

 著作では50年前の出来事であるのに、リアルで迫ってきます。当時は早稲田大学第1文学部、第2文学部の自治会が革マル派の重要な拠点施設でした。

 

 革マル派が早稲田大学で台頭してきたのは1960年の安保闘争の敗北後でした。早稲田大学の文学部の自治会を組織的に支配し、党派の人材確保と、活動資金の確保、自治会費文学部だけで900万円を確保するためでした。

 

 当時の1万円は今の貨幣価値ではいくらなのかわかりませんが、外食で「かつライス」が最初は170円で食べられました。今は800円です。4倍になっています。4倍なら3600万円の活動資金(文学部自治会だけで)を革マル派は早稲田大学当局から徴収していたことになりますね。凄い金額です。
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 1962年頃と言えば、当時早稲田の学生であった北村正志さんが「 大学の2~3年の頃「あれが内ゲバの最初」という乱闘が起こる。

 

「当時、6尺の、すぐ折れる角材やったですよ。東京中から集まってきた500人の学生がそれを持って,革マル相手に5時間も6時間もやっていた。」と北村さんは語ります。

 

http://blog.livedoor.jp/map211/archives/52375943.html
(個人ブログ記事「爽やかな北村正志さん)

 

 革マル派は以後早稲田大学を1大拠点化し、党派の人材をリクルートし、同時に自治会費などを徴収することにより豊富な活動資金も手に入れることが出来ました。早稲田の全学部や早稲田大学祭からも資金を得ていたようですから現在の貨幣価値で言うと億単位で活動資金を確保していたと言えると思います。

 

 また当時の早稲田大学当局は革マル派の自治会を「公認」し、暴力行為を黙認していました。そのことで学内の秩序を維持するために番犬」の役割を期待していたのだろう。」
(P30[暴力を黙認していた文学部当局」)という状況であったことを著作で知りました。

 

 北村正志さん達が、1963年当時革マル派と大学構内で乱闘されたとに記述がありましたが、革マル派はその年から文学部を中心に組織的に大学を支配するために浸透していったようですね。

 

 冷静に考えますとセクト活動の優秀な若い学生もリクルートできますし、資金源も確保できるので、早稲田を支配することは革マル派にはとても旨味があったと思われます。

 

 確たる証拠がないのに文学部2年生の川口大三郎さんを対立セクトの中核派活動家と決めつけ、スパイと決めつけて校舎内に拉致し、暴力行為を加えていたことは異常です。

 

 例えば武装した対立セクト同士が街頭で乱闘し、一方が勝ち、負けたセクトのメンバーが逃げ遅れ、対立セクトの「取り調べ」を受け、その中で暴力行為があるというのであれば、賛同は出来ませんが、理屈はわかります。(それでも戦争中捕虜への暴力行為はジュネーブ条約で禁止されています。)

 

 セクト同士の軍事的な衝突は「内ゲバ」なので、国家間の戦争とは異なり、ルールもなしで無制限に暴力行為はエスカレートしていきますね。

 

 暴力行為を川口大三郎さんに続けていた学生たちは、対立セクトの影に怯え、スパイ容疑をかけて執拗に暴力を繰り返していたのでしょう。
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 川口大三郎さんは革マル派学生たちの執拗な暴力で殺害され、遺体は東大病院前に遺棄されました。殺人事件として警察が動き、報道され、容疑者の革マル派学生が複数逮捕されました。

 

「大学構内の教室の中で起きた事件なのに、大学当局は、必要な措置をとらなかった。革マル派は普段から、反対派の学生や教授への暴力事件を頻繁に起こしていたのに、教室に連れ込まれたまま戻らない学生を救出できなかった。

 

 言うまでもなく教室の施設管理権は、大学当局にある。様子を見に行った2人の教員は川口君の身の危険を十分に察知できたはずであり、施設管理権を行使し、警察に出動要請をしておれば、川口君の命を救うことは出来たのだ。
 半世紀前の出来事であることを承知のうえで、大学当局の責任は免れないと思う。」(P62「第1章大学構内で起きた虐殺事件」)

 

また著者の樋田さんは革マル派の武装集団の様子を克明に描いています。

 

「50人を超える革マル派が。背丈より長い鉄パイプを持ち、一斉に地面を叩いていた。最初は。ドン、ドンと間隔を空けてゆっくりしたテンポで次第にその間隔が短くなり、最後はドドドと地響きを立てるかのように連打した後、全員が鉄パイプを水平にして、雄たけびを上げながらスロープを駆け上がってきた。まるで戦国時代の合戦のようだった。あれほどの恐怖を感じたことはなかった。」

 

「革マル派の活動家達が文学部キャンパスに入ると同時に、リュックから三段~4段階の折りたたみ式の鉄パオプを取り出し、カチャカチャと音を立てながら組み立てていた。」
(P174「牙をむく暴力」

 

 この記述を読みますと、革マル派の武装集団は、にわか仕立ての「武闘派」ではないですね。どこかで武装訓練を集団でやっているプロ集団と言えますね。鉄パイプの効果的な使用と活用の仕方を熟知しています。
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 樋田さんは革マル派活動家に大学構内で鉄パイプでめったうちにされています。

 

「突然、物陰から10人前後の見知らぬ男たちが現れた。その中で見覚えのある学生風の男が私を指さし。「こいつが樋田だ」と叫んだ。

 

 彼らはすごい形相で私を睨めつけ、明らかに殺気立っていた。上着のポケットに隠し持っていた短い鉄パオプを取り出すのを目にして、これはまずいと直感した。いつは襲われるとという予感はあったが、突然、その日が訪れたのだ。

 

 用心してはいたつもりだったが、まさか、一般の学生が往来する構内のこんなに目立つ場所で襲撃さっるとは思ってもみなかった。どこかに油断があったのだろう。

 

・・・すぐに「足を狙え」という声と共に、足首.膝、すねに一斉に鉄パイプが振り下ろされた。

 

 致命的なダメージを一瞬にして与える刃物や銃などの武器と違い、鉄パイプは殺傷効果では劣るが、それだけに何度振り下ろされることで、激痛とともに、その恐怖で心身が冒されていく。まさにあらゆる意欲が削がれていくのだ。

 

 腕と頭部にも鉄パイプで叩かれたそうです。十分な打撃を与えと考えたのか、その場から去って行った。」
(P160[鉄パイプで滅多打ちにされる恐怖」)

 

 実際に樋田さんは鉄パイプで滅多打ちにされた経験があるのでリアルです。

 

 私が通学していた大学でもセクト同士の抗争があり、私はノンセクトであり「鋭い活動家」なんでもなく、セクトの両方のメンバーと知り合いでしたので、対立を2回ぐらい止めたことがありました。

 

 「おかしなことをする奴はマグロにするぞ!」とかあるセクトの人が言いました。」私は、意味が分からず「マグロにするって何ですか?」と質問しました。

 

 そしたらセクトのリーダーは「魚市場にマグロが横たわっているよな。○○セクトに逆らえばまぐろになって地面に転がるんだよ」と説明してくれました。彼らはブレザーに短い鉄パイプを隠し持ち数人で取り囲まれたこともありました。恐怖を感じました。

 

 幸い私はセクトでの活動歴がなかったので「釈放」されました。「また革命運動を共にやろう」とか言われて別れました。

 

 後日談では、そのセクトのリーダーは対立セクトの活動家に下宿で襲われ、頭を勝ち割られて亡くなられたと聞きました。ご冥福を祈るしかありません。おぞましいことです。

 

 そして著作の後半に、筆者は「半世紀を経ての対話」を書いています。「暴力支配を象徴した人物の転身」をかかれています。

 

 その人は当時早稲田大学の革マル派のリーダー(1文自治会副委員長)の1人であった大岩啓之助さんでした。

 

 その人が「100万人のキャンドルナイト運動の創始者となり、革マル派から離脱し、大学で教鞭もとられていました。2021年にほぼ50年振りに再会し語り合われています。大岩さんの言葉を記述します。

 

「僕は人生を何かに向かって組み立てていく感じはなくて、先のことを深くj考えずかなり、行き当たりばったりで生きてきた。それは子供の時からそうだった。」

 

 大岩さんは都立戸山高校で反戦高連という革マル派の高校生運動をやっていて、2浪して早稲田へ入学されました。最初いから「幹部候補生」扱いだったらしい。「表のリーダー」として要請され学外活動もしておられ、川口大三郎さんの事件の時は早稲田大学にはいなかったそうです。

 

 ですが大岩さんは当時は「誰にも気を許してはいけないという緊張感で活動」をしていたようです。

 

大岩「一般学生を装っていろんな党派が全国から結集していると聞かされていましたから。そういう先入観があったんでしょうね。当時の早稲田は政治運動の拠点で、外部からあらゆる活動家が集まってきた。だから常に警戒していた。」

 

 後日に仲間たちとマンションで集まって会合していた時に中核派に襲われ恐怖体験もされたようです。マンションの6階の部屋でしたが、襲撃者は屋上から縄梯子で降りてきて、バールなどで窓ガラスを割られ部屋の中に侵入され、鉄パイプや木刀でめった打ちされたとのことでした。

 

 襲われた側なのに警察に逮捕され、留置されたそうです。その時に「もっとコーヒーが飲みたい」とか「いい音楽が聴きたい」とか学生運動とは無縁な欲求を生じ、その後組織を離れると組織の上司に伝えたそうです。

 

 大岩さんは「理屈で説明したら噓になる。」と言われています。

 

「人間ってそんなに筋道を立てて、そのとうりにいきているわけでもないでしょう。

 

 理屈で説明したら嘘になると思うんです。組織を去るのを止める理由をもう自分の中に見つからなかった。」(P266)

 

 大岩さんの以下の言葉には感銘しました。

 

大岩「そうは言っても、その場だけ見れば寛容は不寛容にかなわないわけですよ。絶対的に劣勢です。

 

 しかも残念なことに、この数10年、世の中はどんどん不寛容に向かっています。でもそれを押し返す力が本来、人には備わっているはずです。

 

 僕は人間の本質は寛容だと思っているんです。人類は寛容の方向に進化してきたというのが僕なりの結論です。僕は残された人生で、自分なりの性善説を広めて社会の役に立てばと思っています。」
(「不寛容を押し返す力」P281]

 

 1994年に早稲田大学は奥島孝康総長が就任して事態が変化しました。wikipediaにこう書かれています。

 

「大学側は革マル派の影響力を排除するため、1995年7月に商学部自治会の公認を取り消し、2005年3月には社会科学部自治会の公認を取り消した。

 

 また、革マル派が主導する「早稲田祭実行委員会」が、長年にわたって早稲田祭の収入や助成金を同派系の偽装サークルに1000万円単位で横流しするなどの犯罪行為を行っていたことが判明したことから、大学側は1997年から2001年まで早稲田祭の開催中止を決定し、同派系の偽装サークルの公認も取り消した(この時、公認を失ったサークルの一つに「早稲田大学新聞会」がある)。これにより革マル派は早稲田大学の資金源を失った。

 

 この大学の厳しい処分に対して、革マル派は1997年、「早稲田大学学生部長宅盗聴事件」を起こすという反撃に出て、大学側と革マル派との対立が激しくなったが、大学側は革マル派の関係者を大学から徹底的に排除するなどして、大学側の勝利に終わった。

 

 それ以降、革マル派の残党は、サークル活動などを通して巧妙に学内で一定の活動を展開しようとしているが、かつてのような影響力はほとんど無くなった。」

 

 とのことです。

 

 「不寛容な強い組織」におられた大岩啓之助さんは今では「人間の本質は寛容だ」と言われて行動されていることに希望を持ちたいと思いました。

 

 確かに今の世界を見ても「他社に不寛容な独裁者が跋扈しています。」。ロシアのプ-チン、中国の習金平、ミュンマーの軍事政権、アメリカのトランプ一派、独裁的な傾向は日本でもありますね。

 

 でも焦らずに、「寛容な世界」をこしらえたいと思います。私の場合は小さな地域社会の中ですが。つくりたいものです。

 

 個人的に52年間うじうじ悩んで来た問題は、「半分ぐらい」すっきりしました。大岩さんがいわれるように理論的に整理する総括することが無意味であることも納得しました。

 

 要は意見が異なっても、辛抱強く他社の意見を傾聴して、合意点を見出す努力をし続けることが、無意味な争いを避ける唯一の方法なんでしょう。

 

 全く利害や利権のない小さな地域の防災会や町内会の活動こそが、「合意形成の訓練」をしているのであると改めて納得しました。

 

 そこには経済団体や同業者の団体のような「均質性」などまるでなく、いろんな立場や生い立ちの人達が地域というくくりで繋がっているだけです。でもそれが「原点」であり、1番難しいことであり、1番価値があることであると思いました。

 

 そうした市民・住民の視点から底上げをしながら合意形成し、政治にも関心を持ち自治体や国に対してもきちんと発言する人間になりたいと思いました。

 

 8月18日の映画「ゲバルトの杜 かれは早稲田で死んだ」も見にいきます。

 

8月18日(日)
高知市立自由民権記念館ホールにて開催いたします。
映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』高知市上映会
代島治彦監督 原案者・樋田毅さんトークイベント
8月18日(日)
高知市立自由民権記念館ホールにて開催!
約50年前の1972年11月8日、早稲田大学キャンパスで一人の若者が殺された。第一文学部二年生だった川口大三郎君。自治会を牛耳り、早大支配を狙う新左翼党派による凄惨なリンチが死因だった。学生運動終焉期にエスカレートした“内ゲバ”の嵐。その死者は100人を超える。理想に燃えた当時の若者たちが、革命という名の下に肯定していった「暴力の論理」を今、解き明かす―。
内田樹、池上彰、佐藤優と当事者たちが“あの時代”を語り、鴻上尚史・演出の短編劇が炙り出す“内ゲバ”の不条理。
死んでいった者たちと生き残った者たちの、悔恨と鎮魂を刻印するミクスチャー・ドキュメンタリー作品です。
本作の監督 代島治彦さんと、原案本『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)の著者 樋田毅さんをゲストにお迎えして、上映&トークイベントを行います。
・・・・・━━━━━━━━━━━・・・・・
■日時:2024年8月18日(日)�※開場 9:30
�<映画上映 >
①10:00~12:14
②14:30~16:44
③18:00~20:14
�<トークイベント>
1回目 12:14~13:00
2回目 17:00~17:45�※ トークイベントは、映画の半券をお持ちの方が、
どちらか一方に参加できます。
■会場:高知市立自由民権記念館ホール�(高知県高知市桟橋通4丁目14-3)
■鑑賞料:
前売1,300円 / 当日一般1,500円 
(シニアも一般と同じ)�小中高生は当日のみ1,000円�※ 未就学児入場不可
■前売券販売所:�高知県立県民文化ホール�高知県立美術館ミュージアムショップ�かるぽーとミュージアムショップ�金高堂書店本店�コープよしだ、コープかもべ�ローソンチケット(Lコード:81665)
※シネマ四国の電話・メール・Facebook
LINEトークでも前売券のご予約ができます。
【主催・お問合せ】シネマ四国�電話:088-855-9481�メール:cinema-shikoku@sweet.ocn.ne.jp
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2024年6月 4日 (火)

天安門事件から35年です


1989年6月4日、民主化を求める大勢の学生や青年労働者が北京市の天安門広場に集まりました。あろうことか中国政府は非武装の自国の青年たちに銃火器と戦車迄繰り出して弾圧しました。

人民に銃を向けない人民解放軍が人民を殺害しました。中学生以来私はも毛沢東思想の信仰者でしたが、1972年の連合赤軍事件の陰惨な仲間殺しと、中国共産党による人民殺害事件で「吹っ飛んで」しまいました。
 田舎の世間知らずの人間は目覚めることが出来ました。

2024年6月 1日 (土)

爽やかな北村正志さん

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 高知新聞2024年5月24日の特集記事「時代の旅人 あの人に聞く」はとても良い記事でした。実業家北村正志さん(高知市出身)の人生を取り上げて浅田美由紀記者がまとめられていました。

 北村正志さん(83歳)は、高知初のカメラ販売店チェーンである「キタムラカメラ」をつくりあげた2代目経営者であり、中興のその人でした。私は全く北村正志さんには面識はありません。ですが、亡き母が、北村兄弟姉妹の1人と学校時代からの友人であり、北村一族の動向については子供の時から母から聞かされていました。

 桜井町の理髪店がご両親で、兄弟姉妹が多くいたという北村家。高知初の全国展開したキタムラカメラは、2代目の北村正志さんの会社。北村商事や桜井水道という会社も兄弟姉妹が創業者です。1932年のロサンゼルス五輪の水泳で金メダルをとった北村久寿男さんも、兄弟姉妹の1人でした。

 記事によると北村正志さんは1959年に土佐高校から早稲田大学に入学。60年安保闘争の最中でした。東大生樺美智子さんが亡くなっ他国会デモにも参加されていました。
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「すぐ近くで死んだぞ。と言うてね、追悼抗議になって、京大の奴が朝までアジっていた。僕なんか群衆の1人。それからだんだん学生運動にのめりこんでいったんです。」

 大学の2~3年の頃「あれが内ゲバの最初」という乱闘が起こる。

「当時、6尺の、すぐ折れる角材やったですよ。東京中から集めっまってきた500人の学生がそれを持って,革マル相手に5時間も6時間もやっていた。」と北村さんは語ります。

 懲役1年8カ月の執行猶予判決を受け、大学からは除籍処分。学籍はなくても毎日大学の自治会室へいかれたとか。同じ大学で奥さんもいて生活に窮して、お父さんに泣きつき、九州の取引先の会社の倉庫番gとして勤務。あまり退屈だからまた学生運動をしようと企んでいたら、奥さんがお父さんに「密告」され、お父さんが現れて高知へ連れかえられたとのこと。26歳になっていたそうです。8年間も学生運動、社会運動をなさっていたようですね。

 北村さんはきちんとした会社にしたかった信念があったようです。「学生の頃は左翼でしたから。とにかく因業な(悪い報いの原因となる悪行」経営者のにはなりたくないと強く感ずるもんがありました。」

 北村さんは「就業規則の作成」「労働組合もつくり入らないと社員にしなかった」「社内での呼び名はさん付けで肩書ではなく」「座席はフルーアドレス制」にされたとのこと。

「学生時代の価値観が経営に響いたとすれば、姑息な会社にはしたくはないという気持ちがありました。会社らしい会社をつくろうと。会社の中にリベラリズムを貫こうとしたんです。」

 学生運動で鍛えた社会思想と、企画力、プレゼン力と行動力、指導力が会社経営でも活きたのでしょう。また北村さん自身がゴリゴリの古ぼけた「経営者は悪」という左翼理論や労働運動至上主義からは無縁な存在であったと思います。お父さんの寛容さ、優しさもプラスになっています。

 未だにあり程度高知で名前のとおった会社でも「残業代の不払い」や「労働組合を作ろうとしたら解雇された」「共働きのどちらかが退職(多くは女性)に追い込まれる」、せこい企業が多い高知の会社経営者のなかでは北村さんは秀悦な存在ですね。

 北村正志さんが家業に専念しだした時代は、お父さんが拡大していた現像所事業が好調で卸の利益が多き時代でした。チェーンストア理論を1から学び、研修に打ち込み、小売店拡張展開し、郊外店をつくりました。

 そして小売り店のチェーン化で2007年に1000店舗展開を達成されました。誰もがカメラを持ち、当時のコンビニ店に現像を依頼すると翌日プリントしてくれた時代でした。デジカメが登場する前のじだいでした。

 うちの子供たちは1980年台に生まれましたが、幼少期から小学生時代の行楽写真はフィルムカメラで撮影、あるいはインスタントカメラで撮影し、現像とプリントしてもらっていました。その仕組みはすべて北村さんたちがこしらえていたということがよくわかりました。

 しかしその後IT時代になり、フィルムカメラがデジタルカメラに置き換わり、それがスマートフォン内蔵型カメラに置き換わりました。2017年に熊本地震に伴うデジタルカメラの減産が、初の赤字決井さんとなり、翌年の2018年にTOBでCCCの完全子会社化になりました。

「事業の継続と社員の雇用を守る」という信念が北村正志さんにあり、円滑な会社の譲渡になったようですね。記事では2020年に新宿東口に創業当時の名前を冠した「北村写真機店」をこしらえました。背か負い有数のカメラやレンズの在庫を持つ旗艦店とか。希少なライカの在庫もあり、1台数千万円の名機も扱っておられるとか。

 8年間の学生運動・社会運動の体験も、自慢するわけでも、卑下するわけでもなく、さりげなく語る北村さんは格好良いと思います。それから家業を継いで、50年間で企業に育て、小売店展開も成功させ、時代の流れで縮小均衡をしいられますと、信頼できる企業体に株式を譲渡し、雇用と事業を守りぬきました。「軟着陸」させました。なかなかできることではありません。

 業界団体や経済団体にも入会せず、また家族を後継者にせず、まさに記事の見出しどうりの「企業は人のためにある」経営者の人生でした。あこがれる経営者ですし、何より爽やかですね。

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