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2024年6月21日 (金)

「重信房子がいた時代」を読んで

 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。
重信房子がいた時代1_NEW

「集団になると、人は考え方が浅くなって非論理的になってしまう。あさま山荘事件を含む連合赤軍によるリンチ殺人から始まる一連の事件は、その典型だと思うね。

とにかく閉鎖された集団の中で、非常に強い権力性を帯びたリーダーがいて、過度のストレスを全員が持っている。こういう状況で人は判断できなくなる。あとから『なんであんなことをやってしまったのか』と後悔する。
重信房子がいた時代4_NEW
こういうことはたくさんある。日本史にも世界史にもね。そうしたことを端的に示す事件だったと思う」(映画監督・森達也氏談)NHK記事より)

 とにかく私が高校を留年した1971年2月に引き起こされた「連合赤軍・あさま山荘事件」と1972年11月に「早稲田大学構内で革マル派による一般学生川口大三郎さんへのリンチ殺人事件」から連なる際限のない内ゲバ殺人抗争が激化し、日本社会から「社会運動」「政治闘争」が、2つの「ブラックホール」に吸い込まれ消滅しました。

 私個人は「連合赤軍」や「内ゲバセクト」の渦の渦中にいたわけではなく、大きな影響(悪影響)を受けた渦の外周に居ただけの人間です。ですが渦巻は渦の外周ほど高速で回転します。強い悪影響を受けながら、鬱鬱とこだわり続け、貧弱な頭脳で1972年から52年間考え続けてきました。

考えたことは、「なぜ日本の新左翼セクトは仲間殺しをし、セクト同士で連携することなく、殺し合いを際限なくするのだろうか?中国は敵対していた共産党と国民党が連携して抗日軍をこしらえました。その動きのかけらもないのはなぜなのか?」でした。

 個人ブログで「連合赤軍と新自由主義の総括」なるタイトルをつけ、10年以上前から考え続けてきました。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/cat21222778/index.html
(連合赤軍と新自由主義の総括)

 最近読んだ2つの著作「「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊)と「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読みました。すべて解決したわけでもないですが、2つの著作は私の悩んでいた52年間とリンクしています。長い長いトンネルの出口のかすかな灯のように思いました。

 「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)の読書感想文です。一読して。重信房子さんは、「普通の生活者感覚のある人」「1960年代後半から1970年代初頭の激動の時代の渦の中にいた人ですし、著者の油井さんは、重信房子さんの生い立ちから家庭環境、学生生活も丹念に描いていますので、人物像がわかりました。

 私は最近はYouTubeで重信房子さんの出演する中東情勢を解説する番組を時折も見るようになりました。

「私たちがパレスティナへいったころは、旧ソ連の支援がパレスティナにあり、パレスティナの青年は旧ソ連で高等教育を受け大学に進学し医師になる人もいました。受け入れてくれる素地はありました。」

「イスラエルがレバノンに侵攻した1982年以降は、中東に居ずらくなりました。また旧ソ連が崩壊した1989年以降は支援も少なくなりました。」

「1995年にイスラエルとパレスチナの共存を国是としたラビン首相が暗殺されました。1996年に台頭したのがパレスチナ国家を認めないネタニエフでした。これ以降は対立と分断が始まります。」

 重信房子さんはYouTubeで明瞭に解説してくれました。なるほど。という感覚でいたところ、偶然友人が「重信房子がいた時代」を貸してくれました。「家内の親戚の人が書いたノンフェクション。手元に1冊しかないのを送る。読んだら返却してほしい。」とのことでした。

 稚拙な読書感想文です。印象に残った言葉を書き出しました。

「ねえ、あなた髪型かわったわね。」

重信房子は、私にそういった。アクリルの窓越しに手と手を合わせたあと、いきなり、

「昔はもっとボーイッシュで、すごく短かったじゃない。その印象が強いの井よ、それから目も変わったわね。ほら昔はもっと細かったじゃない。」

「しわが出来て、ふかくなったんですう」

 そんなことを返しながら、重信房子も、ただの、ふつうの叔母さんじゃん、と思うと笑いがこみあげてきた。

 ほぼ40年ぶりに面と向き合って、言葉を交わす、その話題がこんなとことから始まるとは、さっきまでの気鬱は何だったのか、と力が抜けた。」(40年振りの再会 P11)

「房子がアラブに向けて出国したのは1971年。赤軍派の結成は69年8月23日だが、その前から房子は大学を離れて党派活動に専念するようになっているはずだ。そのときから、私が房子と会う機会はなくなった。

 したがって、この再会葉41年ぶりでもあった。しかも親しくしていた時期は67年から68年にかけてのわずか2年足らずである。一緒に歩いた土地も、駿河台のせいぜい半径2キロぐらいのものだ。

 同志でもない私には、共有する記憶はわずかなものだ。この空白はどう埋めたらいいのか。そもそも埋めることはできるのか。話すこともなく、会話が途切れてお互い気まずい思いをするのではないか。ドラマや小説の再開のシーンを浮かべてなぞらえようとした。

 ところがいきなり髪型の話である。(中略)41年間の空白はあまりにあっけなく消えた。その41年前の事、今のこと、年相応のしみやしわ、白髪のこと。脈路なく話は結んだりほどかれたりして、わずか10分ほどの面会時間は終わった。

 帰りの電車の中で思い出した笑顔は、40年前と変わらなかった。目も口元も、学生時代と何1つ変わらなかった.」

「ねえあなたは誰が好きなの」房子は唐突に話しかけてきた。

  中略


 あのころ、汚い研(文学研究会)のサークル室で、彼女の白い肌はきわだっていた。ピンクの口紅がよく似合っていた。おっとりした問いかけだったが、いい加減な返事を許さない強さがあった。

 文学サークルで「誰が好きなの」と問われれば、あのころは、カフカ、カミュ、吉本隆明、埴谷雄高、・・。そして大江健三郎とたいていの学生は答えた。しばらく前まで高橋和巳が明治の助教授に名を連ねていたこともあり、よく読まれていた。実際に私たちの周りでは、文庫本になったばかり「散華」手に高橋勝巳の名を連呼しているものがいた。

 そんな中で、私が「谷川俊太郎とか富岡多恵子です」と答えたものだから、房子は、一瞬とまどった。私の言った詩人を知らないのだなと私は思った。ところが彼女はすぐに人なつこい笑顔でいった。

「えっほんとに。私も詩を書いているのよ。現代詩を。今度見せてあげる。あなたもみせて。」その時たまたま部屋に行ってきた男子学生を紹介しながら、私と彼の両方にいった。

「ねえNくん。彼女も現代詩ですって。Nくんは鮎川信夫をよくよんでいるのよ。「荒地」の詩人の井戦争体験や詩に惹かれるんですって」P14

 1967年・68年頃のブント系(社学同の影響の強かった明治大学の学生の傾向なのか、当時全共闘世代と言われた多くの学生たちの流行の読書傾向なんでしょう。

 わたしは重信さんより8歳、著者の油井さんより6歳年下です。67年・68年は田舎の中学生でした。1970年の高校2年生の時、高共闘をやっていた追手前高校の連中が吉本隆明がどうしたとか言うていました。私は田舎の高校生でしかも毛沢東主義者でしたので興味はありませんでした。
yosimoto
 1973年に大学へ入学して、入部した文科系サークルがブント系の傾向いうが強く、その時期に吉本隆明、埴谷雄高、高橋和巳、などを読みました。荒地の詩集も読みました。鮎川信夫もです。「自由闊達」という雰囲気でした。
ayukawahaniya
 1973年の夏ごろまでは、ノンセクトの学生たちの運動が、早稲田大学でもセクトである革マル派を凌駕するのではないかという勢いがありました。しかし夏休みが終わり秋になると革マル派は武装集団として「プロ化」し整然とした武装集団に変身していたようです。

「50人を超える革マル派が。背丈より長い鉄パイプを持ち、一斉に地面を叩いていた。最初は。ドン、ドンと間隔を空けてゆっくりしたテンポで次第にその間隔が短くなり、最後はドドドと地響きを立てるかのように連打した後、全員が鉄パイプを水平にして、雄たけびを上げながらスロープを駆け上がってきた。まるで戦国時代の合戦のようだった。あれほどの恐怖を感じたことはなかった。」

「革マル派の活動家達が文学部キャンパスに入ると同時に、リュックから三段~4段階の折りたたみ式の鉄パオプを取り出し、カチャカチャと音を立てながら組み立てていた。」
(P174「牙をむく暴力」彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊より。

 結局組織化してきたセクト(党派)の武装集団に対抗するためには、セクトの武装集団でない対応できない時代となり、口論や論争で対立する相手をやりこめるのではなく、暴力行為で相手セクトの幹部を殺害する行為を繰り返すようになりました。

 思想の左右を問わず、「異論を排除し、時に暴力的に排除し、殺人行為もしでかしてしますことが常態化する。」異常さが52年前の日本の新左翼党派(セクト)にありました。これでは問題意識を持ち、デモや集会に参加しただけの学生一般は、ついていけるはずもなく、必然的に政治闘争、社会運動は日本社会から衰退し、広く支持を得ることが難しくなりました。「政治」に無関心な市民が増大し、「改革」を標榜する自民党清和会政治を容認し、格差社会を拡大することに結果として加担するようになりました。

 油井りょう子さんは、重信房子さんのご家族(両親や兄弟)や生い立ちなども丹念に記述されています。お父さんは若かりし頃、極右団体血盟団のメンバーでありました。15歳も年が離れた奥さんと結婚し、敗戦後は夫婦で食料品店を世田谷で開業し、懸命に家族力を合わせて生きていました。

 重信家の兄弟姉妹は皆成績優秀で大学進学をしたかったようでしたが、商業高校や工業高校に進学し、卒業し大手企業へ就職しました。重信房子さんも商業高校卒業後は、大手食品メーカーのキッコーマン醤油に就職しています。

 高校時代に文芸部に入部しました。自作の小説を書くだけでなく行動力もあったようです。

「高校時代には、武者小路実篤の「友情」を読み、その作家に会いに行った。そこで、作家に向かって「ヒロインの杉子は民主的ではない」などと面と向かって批判した。

 大作家は、台所でお茶の用意をいしている妻に聞こえるように、笑いながら大きな声で言った。「おい、杉子は民主的ではない、とここにいるお嬢さんがいっているよ」
 杉子という女性は、その頃の作家の妻がモデルだったからだ。批判したお嬢さん、房子のために大作家は色紙まで書いてサービスまでしてくれたという。」(文豪に会いに行く P41)

 単なる文学少女だけでなく、物おじしない行動力も備えていたようですね。感心しました。

 また重信房子さんの兄弟姉妹は地域社会の現実と真摯に向かい合っていました。

「先にもふれたが、房子の家の近所に朝鮮人の部落があった。近所の大人は,子供たちにそこへは「近づくな」とあからさまにいった。1950年6月から53年7月迄の朝鮮戦争の影響もあった。
重信房子がいた時代2_NEW
 しかし、房子の長兄が自転車に乗っていてチンピラに因縁をつけられたとき、一家を守ってくれたのは、この集落の人々であった。好奇心旺盛な房子達きょうだいは、関心を持って集落の人々の暮らしや、自分たちと違う風習を見つめた。

 春、桜の季節になると、集落の人々が、馬事公苑に繰り出すのです。そして、太鼓を鳴らし、手拍子をとって」にぎやかに歌い、踊っていました。華やかな服装とにぎやかな踊りと、ふだんの暗くくすんだような暮らしとの差が、あまりに大きいので、毎年、驚いてみていました。と房子は振り返る。」(P44「戦後民主主義の申し子」)

 わたしも小学校低学年時代に大阪にいました。経済格差がある地域でした。上流の家庭は、母親は女子大卒で専業主婦。子供にが大学生の家庭教師をつける環境。そのお母さんたちが「あそこへは行かれん」と言っていたのは地域内の朝鮮人集落でした。私は転校生でしたので両方の地域で友人がいました。

 朝鮮人集落のご両親は共働き家庭。母親は在宅せず、アパートの鍵を子供に持たせていました。「かぎっ子」という言葉を初めて知りました。うちの母も土地らの地域の子供も差別せず、おやつを出していました。重信家も健全な過程であったと思いますね。

子云う高3年生の時は「小さな親切運動」を夏休み返上で懸命にボランティアをしているところを新聞に取材され、記事になっていたそうです。

「このころの房子の活動は、あくまでもけなげな正義感からホームルームでリーダーシップをとるという範囲でしかなかった。外へ向かって行動し、発言しても、だれひとり傷つけるわけでもなく、自分も傷つかず、大人たちからも好意を持たれ、優等生のお嬢さんが、勉強と両立できる健全な活動の範囲だった。

 こんな生徒はどのクラスにもひとりはいたはずだ。こうしたかつどうがのちの「国際テロリスト」の萌芽と見ることは誰にもできないだろう。むしろ、戦後の民主教育が理想とした、貧しさに負けず、いわれなき差別に挑み、真っすぐ明るく頑張る女学生の姿そのものではないだろうか。」(P47[戦後民主主義の申し子」

 重信房子さんは1964年の高校を卒業し、キッコーマン醤油に入社されました。そして翌年「教師になりたい」夢をかなえる目的で1965年明治大学2部(夜間)文学部に入学されました。

 昼間は会社勤務。夕方は夜間の大学生。いろんな職種の学生がいて刺激になったようです。その後1960年代後半のうねりのような社会運動が世界的に先進国で起きましたが、サークル活動や自治会活動、社会運動の大波が到達してきて重信房子さんも影響を受けて、思想信条も変化して行きました。
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 1965年の日韓闘争、学費値上げ反対闘争、1966年の各大学での全共闘運動やベトナム反戦闘争、1967年、1968年頃には、社学同(ブント系)の運動に影響されていきました。

「集会やデモに房子は参加していた。しかし房子は表には立たず、つねに「救対」であった。応急処置をする包帯や赤チンの入った救急箱を手にして、セクトを超えて救援に(救護)対策にはしりまわっていたのである。デモの後ろにいて、傷ついた学生や労働者を手当てする。それは明治の学内や関係者に限らなかった。」(「救対の重信」P86)

 また闘争は思い付きで始まる。「1968年6月21日で社学同の委員長のMがパリのカルチェラタンのようなものだ。やれるのはやはり明治だろう。中央では社学同集会やって呼応させるから」

 明治大学の学館から長い机を運び出し、御茶ノ水駅から駿河台へ通じる明大と売りに並べてバリケードを築こうというのだ。車の往来の激しいそのとうりの真ん中に机を置くのだ。

 中略

 またたく間に開放空間が出来上がりました。早速「解放区」「反安保・反戦の砦。神田カルチェラタン解放中」などの立看板を御茶ノ水近くの道真ん中に立てました。」(神田カルチェラタン P104)

 記述されている文字をなぞっていても楽しい。ほんのわずかな時間でも「解放区」が出来たことが楽しいです。社会運動や闘争は明るく他の良くないといけない。

油井さんはこう記述しています。「房子が熱い思いで振り返った神田カルチェラタン闘争。社学同が掲げ、現思研がリードし、市民を巻き込んだ、この戦いの熱気はいったいなんだったろうか。あの時代の闘争の1つだったのだろうか、それともまぼろしだったのか。あの時代に、あのキャンパスにいた一人として、私は、遠い日の物語であり,やはりまぼろしだったのだとしか思えない。」(P104)

 幻であれ何であれ、「解放区」を日本で大学構内ではなく、神田の路上で体験したことは羨ましいです。そういう体験を私はしたかったです。後にも先にもそういう「解放区」は日本史ではなかったと思います。

また重信房子さんの父親の重信末夫さんは、青年時代血盟団の筋金入りの右翼青年でした。1967年の羽田闘争の顛末を家族に熱く語る房子さんに末夫さんはこう言われたとか。

「房子本気で革命をやるなら、あのようにやってはいかん」

 中略

「本気で革命をやるなら、まず民心を重んじなければならぬ。民族の心を知らぬ者が世界革命を唱えても、それはコスモポリタンにすぎぬ。
 井上日召は1人1殺主義と言われているが、そうではなく、1殺多生は1人ではできぬ。」(「父よ娘の革命」P113)

「革命とは死ぬことを見つけたり」と思っているんだ。革命の途中で死ぬのはやむをえない。同志の死は革命の捨て石ですよ。捨て石がなければ革命なんかできないのいだから。
 
一般市民の死、負傷はやむをえないことである。革命をやる以上犠牲者はでるのはしかたがない。

 ただし、内ゲバをやるような下衆な根性では革命が出来るのか。出来や市内四・そんなもの」と吐き捨てている。」(PO1269

 やはり本物の革命戦士には、内ゲバは堕落であり、排すべきものであるという真摯な心意気があります。本物ですね。

 大学では1969年は全共闘運動が退潮し、学生運動が変質し始めた時期だったようです。油井さんによりますと重信房子さんは、キッコーマンは1年半ぐらいで活動と両立は難しいということで退社されましたが、サークルに活動、学生運動、アルバイトの多忙な日々でありながら大学は4年で卒業、しかも教職課程も取得していました。更に政経学部3年に学士入学しています。それは専従のプロのセクトの活動家ではないと大学当局が判断したからでしょうと油井さんは記述しています。

 教師になりたかった重信房子さんですが、取り巻く状況はそれを許さないようになっていったようです。1969年に全共闘運動の衰退もあり、ブントのなかで「武装闘争」を主張する関西派が台頭し赤軍派を結成します。

 1969年11月に武装訓練をすると大菩薩峠の福ちゃん荘に集結していた赤軍派主力部隊50数名が全員逮捕されました。

 1970年3月に田宮など9人の赤軍派がよど号をハイジャックし北朝鮮に飛びました。本当の目的はキューバでしたが北朝鮮は寄り道でした。「俺たちは明日のジョーになる」という漫画的な事件でした。

http://dokodemo.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-647d.html
(個人ブログ「われわれは明日のジョーである」2009年5月4日)

 1971年2月に赤軍派の1部と毛沢東主義者の京浜安保共闘が合体した連合赤軍があさま山荘事件を引き起こし、無残な仲間殺しが露呈されました。重信房子さんと明大二部文学部で親友だった遠山美枝子さんは惨殺されました。

 重信房子さんは1971年3月に中東のベイルートに到着されていました。


WIKIPEDIAで検索しますと「日本赤軍」の活動履歴が出てきます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%B5%A4%E8%BB%8D%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8F%8D%E6%84%9F%E3%81%A8%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%AE%E5%85%88%E7%B4%B0%E3%82%8A

 記述は不確かな部分もありますが、「活動年表」的なものがないと、なにせ50年から40年前の出来事なので、こちらも記憶が定かではないので、事実誤認は避けたいので、検索してみました。

 1969年頃からノンセクトの広範な社会運動(全共闘運動)が退潮傾向になり、70年安保闘争はセクト主導になりつつありました、革共同中核派、革マル派、社青同解放派、ブント(共産主義者同盟)は分裂し、戦旗派、叛旗派、ML派、赤軍派などに分れつしていきました。

 記憶が正しければ赤軍派は「前段階武装論」とか「国際根拠地論」にもとづいた武装闘争優先の党派でした。ですが主力部隊と幹部の大半が1969年の大菩薩峠のふくちゃん荘の合宿所で逮捕されました。

 1970年の「残党の」田宮ら9人がよど号をハイジャックして北朝鮮経由でキューバへ行く予定でした。「国際根拠地論」に戻付いて行動であったgと思います。

 国内に残された赤軍派の中堅幹部の森恒夫は、思想信条の全く異なる毛沢東主義者集団の京浜安保共闘と結託し、連合赤軍を結成し、「国内山岳アジト」で、日本国内での武装闘争を仕掛けようといしていました。

 最高幹部絶対主義と些細な主張の違いを許さず「総括」と称して、仲間にリンチを加え殺害する行為を繰り返していきました。「神田カルチェラタン」のおおらかさなどみじんもない、息苦しい閉ざされた閉鎖組織になってしましました。重信房子さんの明大時代同じサークルで親友だった遠山美枝子さんはそのなかで惨殺されました。

 1971年3月に重信房子さんたちは「国際根拠地」を求めて少数の仲間たちと中東ベイルートに居ました。1970年代は、ハイジャックや武装闘争など「日本赤軍」は活動を激化させた時代がありました。

 何故アラブなのかは油井さんも含め文研や明治大学の仲間たちもさっぱりわかりませんでした。その理由を油井さんはこう書かれていました。

「なぜが、少しずつわかるようになったのは、04年の房子の公判を通じてだ。房子は、1月27日の第40回公判で述べている。

「(よど号事件に関連して)逮捕されて出てきた後、実際には、もう自分にやれることは余りないな、やめようかなということで、迷惑ばかりかけて力になれないから、もう1回学校へ戻ろうかと思ったんですけど、もっとひどいというか、誰もいなくなってる状態でだったんで、ぜひ国際部を引き受けてほしいと、国際部のキャップに言われまして、それを手伝うという形で協力しましyた。」(P147「国際根拠地づくり」)

 中略

「そしてなぜアラブだったのかと弁護人に重ねて問われて、房子はベトナムと比較して答える。ベトナムは陣地もあり。国家という後ろ盾もある戦いであり、義勇兵として参加を希望したものに対しては、自国の帝国主義と闘ってくださいという立場をとっていて、それは1国の革命解放で完結していく戦いであった。

 しかしパレスティナ問題というのは知れば知るほどい、世界革命なしでは解決できない。で、世界党、世界赤軍、世界革命戦線というように主張してきた赤軍としては、まさにパレスティナの戦場を戦いの根拠として、世界は新しくうまれかわるんではないかと、そういう非常に大きなインパクトを持ったイメージに受け止めました。」(P149)

 結果的に赤軍派の「国際根拠地論」を「まがりなりにも」「見える化」できたのは、重信房子さんが国際部をしぶしぶ引き受けたからであったと思います。

 「あとがき」で重信房子さんはこう述べています。

「読みながら思いました。面会でもそうだけど、40年の断絶を経て会う旧友たちとは一瞬にして時間を飛び越えてしまいます。何10年経っても人と人との関係の在り方は変わらないな、と。

 姉からみたらわたしはいつも妹であり、大学時代の仲間からすれば、私は世話好きの女学生の枠を出ていません。上級生から見れば、ひたむきなあぶなっかしい下級生であり、下級生だった旧友かられば、楽しくくっついて行ったら、とんでもない目に遭わせた先輩です。

 「出所したら文句を言わないといけないから、みんなお互いにいきていこうぜ!」などといって、「土曜会」をつくって、この10年、わたしを支えてくれています。未来やこれからを語るときは一緒に並んでいるのイに、過去も今も関係性は、そのままです。それが居心地がよくて超えられないし、また超えるきもないのですけれど。」(あとがき P234)

 1974年に主パンした本の前書きで重信房子さんはこう書かれていました。
「普通に生きている女の子が、妥協しないで自分に忠実に正しいと思ったことを追いかけてきたらここ(アラブ)に来た。
 自分に忠実である事であることが”青春”なら、”青春”とは権力者に言わせれば”犯罪”のことになったしまう。

 死ぬまで”青春”を堅持する私は、だから”犯罪者”だ。死ぬまで”革命”を堅持する私の意思は、”犯罪”なのだ。」

 読後感は「爽やか」でした。世話好きな女の子が、精一杯奮闘しているうちに、国際根拠地づくりでアラブの地へ行っていたという実話ですね。活動家時代も殆どが裏方であり「救対の重信」でした。セクトの上層部や幹部が誰もいなくなり、自分が引き受けてセクトの「国際根拠地」づくりを実際にアラブの地で「見える化」しました。

 実際にはテロ行為やハイジャックなどの罪を問われ、懲役20年の実刑を受け、2022年5月28日に出所されています。

 素晴らしいのはかつての学生時代のお仲間たちが「土曜会」というグループをつくりなにかと重信房子さんを支えてきたこいですね。「出所したら文句を言わないといけないから、みんなお互いにいきていこうぜ!」という趣旨はすばらしいです。暗さのみじんもない。


 本を貸していただき送付までしていただきました梅原孝司さんに御礼を申し上げます。高校生時代から52年間鬱鬱グズグズ考えてきた「連合赤軍と内ゲバの克服する処方箋」が、ようやく「見つかった」きがします。ありがとうございました。

 また筆者の油井りょう子さんにもお礼を申し上げます。わたしは外周にいた渦の外側で悪影響を受けた1人ですが52年間悩んできました。「土曜会」の皆さんのように明るく、言いたいことを言えるような仲間が大事である。家族も地域社会も大事であると思います。

2024年6月19日 (水)

52年間の悩みが解決するかも


 「長い長い出口のない暗闇に52年間いました。最近前方にかすかに光がみえました。それは最近「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅・著・文藝春秋刊)と、「重信房子がいた時代」(油井りょう子・著・世界書院刊)を読んだからでした。

 私は中学生時代から「早熟な政治少年」でした。国政選挙があれば田舎町から高知市内の各政党の選挙事務所を訪ね、チラシをもらったり、事務所に人に政治活動の話を聞きました。

 1966年4月から1969年3月迄が、中学生時代。1969年4月から1973年3月迄が4年間の高校時代でした。1973年4月から1977年3月迄が大学生時代でした。この11年間は私らより数歳上の「団塊の世代」が世界的に突出して大学で反戦運動や学園闘争,街頭へ繰り出して警察権力とミニ市街戦を展開していました。

 またビートルズやローリングストーンズらのカウンターカルチャーの時代でもありました。それまでの時代とは変化するふしめであり、今風の社会風俗の大半はこの時代に登場し流布していきました。

 わたしは彼らから数年おくれて青少年時代(疾風怒濤の時代)になりますが、ノンセクトの全共闘運動は、私らの高校時代から衰退期になっていて、その代わりにプロ集団(セクト各派)がはびこってきて、社会運動の「おおらかさ」が消え去りました。

 そして社会運動が後退局面に入るや否や、1072年2月に「浅間山荘・連合赤軍事件」がありました。毛沢東思想を信仰していた私は、思想的に崩壊してしまいました。なぜ仲間をリンチして殺害するのか。その原理が理解できませんでした。

 同じ年の11月に早稲田大学構内で一般学生の川口大三郎さんが、早稲田大学を当時支配し統制していたセクトの革マル派の活動家に執拗にリンチされ殺害されました。ノンセクトの学生が革マル派に対抗して決起し大騒動になりました。しかし自治会を支配していた革マル派は豊富な資金と武装集団を組織化し、ノンセクトの学生たちを駆逐し、リーダー格の学生にはリンチを加え再支配をしました。

 「セクトに対抗するにはセクトに入るしかない」状態になり、いつしかセクト(党派)の対立が言論ではなく、先鋭化した暴力行為、テロ行為(相手側セクトの幹部の下宿を襲撃し殺害する。)事態になり、「救殺隊」なるプロの殺人集団まであるセクトに現れました。

 相手セクトの幹部のマンションなどの居場所をつきとめ、電話線を切断し、警察に出来ないようにして、屋上から縄梯子とロープで降りてきて窓ガラスをバールでたたき割り侵入し、容赦なく鉄パイプで頭部を乱打し殺害する事件が多発しました。

 銃火器はもってはいませんが、まるで幕末時代の天誅組や新選組のような殺人専門集団を各セクトは作り上げ、対立セクトの構成員を殺害すべくかつどうをしていました。1回のテロ襲撃で100万円ぐらいコストがかかったようです。

 こうなると本来国家権力中枢部を打倒すべきところが、刃がひたすら「対立セクト委に向いて行きます。そうなれば学生集会に参加することも襲われる危険があります。社会運動や学生運動は衰退していきました。何故仲間殺しをしたり、議論ではなくお互い殺人集団を差し向け合い無限ループで内ゲバをやり続けるのか?その答えや解決策は見つけることができませんでした。

 アメリカの大学生はエリートです。その彼らがパレスチナの旗を振り、残虐なガザ市民への虐殺を繰り返すイスラエルと支援するアメリカ政府や企業を糾弾して行動をおこしています。

 コロンビア大学では50数年前の「イチゴ白書」の時代を見ているようです。現実です。アメリカ社会の健全性を垣間見ました。日本はどうなのか。自民党が驕り高ぶり政治資金疑惑で滅茶苦茶しているのに、街頭で抗議活動さうる人はごく少数にとどまっています。

 政治運動や社会運動を忌避する風潮はこの50年間ありました。私が52年間うじうじしていましたが、多くの人も声を出しませんでしたが思いは同じでした。

 「彼は早稲田で死んだ」の著者の樋田毅さんは、当時ノンセクト学生で革マル派と対峙し、リンチを受け重傷を負っています。その後卒業されて新聞記者となり退職後に当時の仲間たちを取材し、また当時対立していた革マル派の元幹部とも意見交換しています。そのレポートに感動しました。

 「重信房子がいた時代」の著者油井りょう子さんは、当時明治大学で滋野井部房子さんと一緒に活動し、身近に観察されています。生い立ちからご両親やご兄弟のことも詳細に記述されています。

「「重信房子は救対でした。対立党派のけが人にも赤チンを塗り病院へつれていきましたよ。」、マスコミで流布されたテロリストの幹部ではない。

 じっくり読んで、自分の「うじうじ」と面を付き合いわせて考えます。出口が見えるようになりましたから。

 最大あと30年の命です。無駄にせず生き抜いてみます。

2024年5月20日 (月)

自民党裏金問題の行方は


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5月13日のBS日テレで、自民党から離党勧告を出され、しぶしぶ承諾した塩谷立安倍派元座長が出演していました。

文藝春秋6月号で指摘されていた、森元総理からの議員辞職して安倍派と自民党を救ってくれという「身勝手な提案」はあったと塩谷氏ははャッキり言われました。
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文藝春秋6月号の記事は,うそでもでっち上げでもありませんでした。

http://blog.livedoor.jp/map211/archives/52375267.html

自民党は裏金議員全員に離党勧告を出し、公認をすべきではない。それが果たしてできるのだろうか?

政治献金とパーティ券収入、そして裏金こそが自民党清和会(安倍派)の力の源泉であり、結果的に既得権益者を政治的に過度の保護し、情報通信の発展を阻害し情報後進国に落とし込め、「働き方改革」と称して非正規雇用を増加させ、低賃金非正規雇用者を増加させ、日本社会を格差社会にしました。
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 その諸悪の根源が「政治団体献金」であり「パーティ券収入」であり、「裏金疑惑」である。かかわった自民党の国会議員は、公民権停止にして、政治業界の新陳代謝を射図るべきであると思う。

 塩谷立氏も「言いたいことを言えばいい。政治信念があれば這い上がれるはず。やるだけやったらいいと思いますね。
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2024年5月16日 (木)

話題の文藝春秋6月号

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 2024年5月10日に文藝春秋6月号が全国一斉発売となりました。私の毎月の書籍日は、5日と20日発売されるビックコミック・オリジナル(500×2)と月刊文藝春秋(1100円)です。月に2000円程度の書籍ほいです.いかにも少ない。

 先月に引き続き月刊文藝春秋を金高堂書店まで買いに行きました。理由は2つの興味ある記事があったからです。
文藝春秋6月号見出し1_NEW文藝春秋6月号見出し2_NEW
「私が裏金作りを始めたと言っているのは誰だ、
 森喜朗元首相「裏金問題真相を語る240分」 という記事と、

「緊急座談会 カイロ大卒小池百合子都知事の真贋」です。

 裏金作りに狂奔し、今は「言い逃れ」に全神経を使っている多数の自民党国会議員たち。その「元締め」と言われている森喜朗氏の発言には、ある意味注目しました。しかし読んでみると「裏金作りは俺が総裁になる前からなんとなく流れの中であった。」「それをおれがやったと言いふらしているのは下村博文だ。」との私怨を取材中に爆発させていて面白い。

 また森喜朗が塩谷氏に「誰かが責任を取らないと裏金問題は収まらないので」「ここはいったん議員辞職して次を狙ってください。全責任を取るので仲間を救ってください、と申し出れば、君は立派に輝くよ」といって塩谷立氏を「説得」されたとか。
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 塩谷氏は「なぜ私だけが貧乏くじを引くんだ」と言い、話は決裂したとか。

 森喜朗氏によれば、塩谷氏は静岡選挙区で鈴木自動車という大票田がありながら、いつもぎりぎりで当選する有坂であり、前回の衆議院選挙では小選挙区では落選、比例復活こともある。悪いようにしないので、ここは1人で泥をかぶってくれとのある意味「無茶苦茶な」落としどころでしたが、結局塩谷氏は断り、」自民党から離党勧告を受け、受諾しました。事実上政治生命を絶たれましたね。

 一方の「緑の狸」と言われている小池百合子東京都知事。小池氏は「学歴詐称疑惑を全く気にしていない」と40年来の知り合いの奥谷氏は言います。「メディが騒ぐからカイロ大卒を経歴から消して出馬するだろう」
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 元都庁職員の澤氏と自民党評論家の田崎史郎氏も奥さんが「社会の政治の社会で1人切り込んでいく小池百合子は意外に女性たちに人気があるとか。

 しかし座談した3人の小池百合子氏への評価は「恩知らずで自分勝手な人間」「本当の意味での側近はいない。」「利害で簡単に人を切り捨てる人間」「いい加減に政治から足を洗い違った人生を歩め」とかでした。

 文藝春秋月刊誌は、ほとんど広告ページがない。大手企業にへつらわない編集が出来ますね。取材もです。談合記者クラブ(例えば首相官邸記者クラブ)は首相記者会見などは「1社1問だけの質問にしてくれ」とか言われ、ぬるい質問しかしない。全く報道の役目を放棄してます。権力の監視ではなく、「権力の番犬」に成り下がっています。

 主義主張はともかく文藝春秋は1100円出して購入する価値はあります。その他の記事やエッセイなどもレベルが高いですから。

2024年5月10日 (金)

政権交代が出来る野党に成長していただきたい!


2000年以降の自民党清和会政権で日本は国力を大幅に低下させ、情報通信分野では中国や韓国の背中も見えない「情報後進国」になり下がりました。

 清和会の政治資金パーティー疑惑や、企業団体献金による既得権益保護政策、格差社会の推進(非正規雇用の拡大。低賃金社会の拡大政策)で歴史的な円安になり自民党政権が続けばより日本は没落することは確定しました。

 では立憲民主党は「次期政権」を担えるのか?手痛い民主党政権の失敗を克服できるのかを、きちんと具体的な政策で国民に示していただきたい。そのベースは「日本国憲法の順守」であり、「日本国憲法の精神」を国民生活隅々に活かすこと、政策として実現していくことでしょう。

 それがきちんとできたら、政権交代が出来ます。日米地位協定

2024年5月 3日 (金)

77年目の憲法記念日

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 5月3日は「憲法記念日」です。「1946年11月3日に公布された日本国憲法が1947年5月3日に施行されたことを記念して、1948年に公布・施行された祝日法によって制定された。」 ウィキペディアより。

 最近ごく一部の政治勢力が「憲法改正」「「憲法9条改正」を言い立てています。今すぐにすべきことなんでしょうか?政権政党の自民党の1部に改憲論者が存在すること自体がおかしいことではないのか。
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 そもそも日本国憲法第9条は、自民党のご先祖の保守政治家幣原喜重郎氏の発案です。日本国統治の最高権力者のマッカーサー元帥は「腰を抜かした。」と言われています。第九条は長年、GHQから押しつけられたものという「俗説」が広まってきました。しかし、憲法九条を提案したのは日本政府の最重要人物でした。その名は、時の首相・幣原喜重郎――。幣原が九条の提案者でありました。

 左翼政党の共産党や旧社会党が「考案」したものではありません。日本国憲法公布当時の共産党は、9条に反対してましたから。今では「護憲勢力」と標榜していますから変化するものです。

 憲法9条のおかげもあって「自衛隊は1人の外国人兵士を殺害せず、1人の自衛官も戦闘で命を落としませんでした。それは「恥ずべきものではなく、世界に誇るべきことです。」日本の自衛隊は「人助けをする組織」であり、「人殺しの国際活動」はしませんでした。素晴らしいことです。
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 また私見ですが「憲法9条」と「憲法第1条の天皇」とは相互リンクしています。戦前は天皇は陸海軍を統率する存在でした。ドイツ帝国を真似たもので、本来鵜の天皇の姿ではありませんでした。日本国憲法では「国民の象徴」となり、明仁天皇は災害地の国民の慰問と、戦没者の慰霊を国内外で行ってきました。象徴天皇のあるべき姿を体現されました。それは現在の天皇家にも継承されています。真摯に被災地を訪問され、国民と真摯に向かい合う姿は、多数の国民に支持されています。
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 自民党の軽薄としか言えない改憲論には辟易する。大規模災害が起きると「緊急事態法の制定で憲法改正」と言い立てる。1月1日の能登半島地震から4か月経過するのに未だに市街地の倒壊した家屋の解体は進展していない。国民の命と生活を守れない連中が改憲論などおかしい。

 ロシアとウクライナは戦争していますが、欧州はイタリア以外は地震も噴火も津波もない。戦争や内乱、クーデターが「災害」ですから。日本は世界の災害大国。世界の大地震の20%が日本で起きている。世界の活火山410のうち110は日本にあります。地震津波、噴火があり、台風や大雨災害は毎年あります。「戦争」などやっている暇はない。政権政党ならそのあたりはわかるはず。
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 アメリカ追随の軍拡など辞めるべき。災害対策で積み重ねてノウハウで「人助けの国際貢献」をすべきです。国連でも平和外交を主張してほしい。自民党が本気でないのなら、政権交代しかあるまりまん。kenchan - コピー

2024年4月20日 (土)

公共の避難所の食料備蓄は1日分


 高知市の防災部局とのやり取りで、判明したことがありました。高知市が管理する公共避難所の食料備蓄は1日分ということです。

「本市の避難所への備蓄の基本方針として,原則,発災後1日分を公的備蓄で対応し,残る2日間は流通備蓄等で対応することにより,本市全体で3日間の備蓄体制を構築することとしています。

4日目以降に国等から受け入れる支援物資があるのでそれで対応します。」とのことです。

 避難所などには、市役所が独自の決めた「定員」があります。例えば定員が200人のところに、災害時に2000人の避難者が避難してくることもあり得ますね。その場合はどうなるのでしょう?

 2024年1月1日に発災した能登半島地震。国や県の初動が遅く、自治体は頑張っていましたが、想定以上の被害が出て場合は、対応ができないですね。でも栄養不良で餓死した人はいませんでしたから、きつい状況でもなんとかなったんでしょうか?


 しかし私らの地域(海抜0Mの市街地)は、最悪の場合は地域全体が長期浸水状態になります。移動は困難であり、流通在庫の供給も、国の支援もすぐには到着しないことでしょう。それを想定した事前準備をしなければならないと思います。

 そのくせ政府広報などでは「最低1週間分の家族分のも水と食料と非常用トイレは各家庭で備蓄してください。」と大規模に広報しています。政府は当座は何もしないとと宣言しているようなものです。

 さてどうなりますか?

2024年4月19日 (金)

人殺しの国際貢献より、人助けの国際貢献を

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 政府与党は、次期戦闘機の開発と販売を英国とイタリアと共同開発し、他国へ販売するとか。戦闘機は「人殺しの強力な兵器」です。それを他国と共同開発し、販売までするとか。いつから日本国は「死の商人」になったのか。日本は家電をはじめ、情報産業でも負け続きで衰退しています。「人殺し兵器の開発と販売」で金もうけをしようと大手企業と政界が結託したことでしょう。


 国民経済は「個人消費が伸長」してなりたちます。30年前から円高対応を間違い、主要なモノづくりを中国や韓国に移転させることで経済はガタガタになりました。太陽光発電や地熱発電などでかつて日本は仙頭を走っていましたが、原子力産業【日立・三菱・東芝)と政界と(自民党)との過度な癒着で原子力に金をつぎ込み、地震災害大国日本で原子力発電を稼働させるという狂気の沙汰を続けています。
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 狭い日本で原発がメルトダウンしたら国民は逃げ場がありません。地震大国日本では原発は全く必要ありません。ドイツは東日本大震災以降廃炉にしたのに、日本は再稼働させています。異常です。

 また岸田首相は先日アメリカ訪問しましたが「アメリカの同盟国として日本は確固としたパートナーになります。」と宣言しアメリカ議会で喝さいを浴びたとか。アメリカ軍に隷属する「日米地位協定」を改定することなく米軍に協力するということは、自衛隊は米軍の先兵(家来)になり突撃させられるということです。岸田首相の「勇ましい発言」は「戦争をしない国」日本で敗戦後79年間貫いてきた平和主義を捨て去る発言ではないのか。大事な国是を閣議決定や与党協議だけで国会での議論なしに決めていいのだろうか?おかしいと思う。
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 「79年間自衛隊は1人の外国人兵士を殺さず、1人の自衛官も戦死しませんでした。」恥ずべきことではなく、世界に誇るべきことです。自衛隊は「災害大国日本」で真っ先に災害支援活動を行い、多くの国民の命を救い、被災地支援を国内外で行ってきました。「命を救う」自衛隊が「人殺しの国際貢献」をしなければいけない理由はありません。
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 6年前に生前退位した明仁上皇夫妻は常に国民に寄り添い、災害が起きるたびに被災地の国民に寄り添い励ましました。また国内外の戦没者の慰霊に訪問し、沖縄には皇太子時代を含め10回も慰霊にいかれました。平和を慈しむ象徴天皇として常に国民に寄り添う姿は忘れることが出来ません。その姿勢は現在の天皇皇后両陛下にも継承されています。
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 被爆地広島出身の岸田首相は米国大統領や米国議会で「核なき世界」を語ることもなく、アメリカの先槍として日本の近隣国の軍事大国の中国とロシアと北朝鮮に対峙すると宣言したようです。アメリカ本土から1万キロも離れた場所に日本はありますからアメリカは日本の支援には来ないと思います。高みの見物するでしょう。見殺しですね。

 岸田首相はアメリカの中古兵器を買いあさり、防衛費を増大させて、中国に対抗させると息巻いてうます。しかし中国は日本経済の4倍の経済力があり、今年の国防予算は34兆円です。日本の7倍です。対抗できるはずはない。難しい隣人ですがお互い仲良くしないといけない。卑屈になることではなく、先人を見習い独立は維持し毅然とした国づくりをしないといけない。
 
 日本がすべきことは「人殺しの国際貢献」ではなく、今まで以上に「人助けの国際貢献」をすべきです。そのためには国は、自治体任せ成投げしていた災害対策に本腰を入れ危機管理省を設置し、国内外の被災地支援を官民協力で行う体制づくりを今すぐ構築すべきです。

 人殺しの国際貢献なんぞより、人助けの国際貢献が遥かに世界平和に貢献できます。

2024年4月 8日 (月)

台湾は防災対策の先進国

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1月に起きた日本での能登半島地震。先日台湾で発生した地震。似たような山岳地帯で、住民や観光客が孤立し、市街地ではビルが倒壊しています。よく似た状況がでています。
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地震の規模も違うので一概に比較はできないでしょうがb、断片的な報道を見る限りでは、明らかに防災対策は台湾が先進国。日本はとても遅れていますね。
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また台湾は行政と民間市民との連動と信頼関係が深く気付かれています。なかなか市民の意見を聞こうとしない日本の行政とは大違いですね。それが災害後の「初動の差」「救助支援の差」「復興支援の差」になっているのだろうと思います。

私は日本は「災害大国」であり、防災や減災は行政も民間も世界のトップクラスと思い込んでいました。しかし日本の100年前と何ら変わらない「過酷な」避難所と、台湾の被災者本位の避難所を見ると、日本は被災者を大事にしない遅れた避難所であると思いました。
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1995年の阪神大震災以来防災関係者や学識者や行政も懸命に取り組んできたはずなのに、100年前の巻頭大震災当時の避難所とさほど変わらない現実はどうしたものなのか。
市井の市民ではよく理解できません。

 上の2枚が能登半島地震。下の3枚が台湾地震の写真です。

2024年3月31日 (日)

仁淀川町への疎開(広域避難訓練)が報道されました。


 2か月も前の出来ごとではありますが、ようやく今頃になってブログに投稿できるようになりました。思いだしながら記録に残します。
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 2024年1月20日ですが、高知市二葉町の住民と仁淀川町長者地区との「もしもの災害時の時の疎開を前提とした顔の見える地域間交流」を2012年から継続してきました。この度高知県初の(行政言葉によれば「広域避難訓練」が行われました。
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 全国初の(疎開を前提とした顔の見える地域間交流の延長上に広域避難訓練がありました。珍しいということでNHK高知や朝日新聞高知総局が熱心な取材をしていただきました。

 私事ですが、昨年は仕事も地域活動も超多忙になり、眼精疲労から視力低下をひきおこしました。ご近所の眼科で診察していただくと「あなたは目に穴が開いている。これ以上は町田病院に紹介状を書くので必ず行くように。」といわれました。

そして昨年11月20日に町田病院へ。診察の結果は「左目に穴があります。今日レーザー治療します。」でした。レーザー治療後に2人の医師の診察があり「1月4日に左眼、25日に右眼の手術と入院」になりました。と宣告されました。
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4日と25日の手術と入院の間に1月20日に「広域避難訓練」がありました。なんとか25人の参加者をあつめました。

http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2023/12/post-5f64b9.html

入院前の12月時点で県政記者クラブにも取材依頼のチラシを投函していました。
そしたら14日に朝日新聞、20日と24日にNHKの取材を受けました。まさに1回目の手術と入院と退院。2回目の手術と入院の直前に取材を受けました。高知新聞と読売新聞、RHCとサンサンテレビも取材に来ていただきました。

 朝日新聞は自宅へこられ、詳細に聞き取りをされました。そして仁淀川町へも行かれ、役場と長者地区へも行かれだんだんクラブの西森会長さんに取材されたようです。
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 NHKは1月20日の取材後に、24日に二葉町の下知コミュニュティ・センターにも来られ、荒木さん(二葉町町内会副会長)と西森さん(前二葉町町内会長)も交え取材いただき、二葉町のまち歩きもしていただきました。
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 取材した内容は2024年2月1日の「こうちいちばん」(高知県域放送)
 2月2日の「ニュースウォッチ9」(全国)で放送させました。

そして、社内の評判も非常によく2月20日には「おはよう日本」(全国)でも放送されました。午前5時18分~24分の予定で放映されました。
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 また追加取材が、わたしの退院後の3月6日にありました。会場は下知コミュニュティ・センターです。海抜0M地域の厳しい現実と、センターの避難所機能の説明をされ、広域疎開が必要になった理由を短い生番組の中できちんと説明していただきました。物凄いことです。

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