新聞業界の”怪人”のご逝去
2024年12月19日に読売新聞グループ本社主筆の渡辺恒雄氏がご逝去されました。享年98歳でした。2年前に逝去した母と同じ日に亡くなられました。母より年齢は1歳下でした。戦争体験のある「戦中派」の重鎮が亡くなりました。
日本経済の12月20日号の1面のコラム「春秋」には、渡辺恒雄氏への追悼文を書かれています。
「渡辺恒雄氏に赤紙が来たのは、1945年に東大に行って間もなくである。当時19歳。配属先の砲兵隊には木製の弾しかなかったそうだ。「本土決戦なんて言っていたやつは許せない。本当にばかげた戦争だった」。後にそう述べている。」(週刊文春編「私の大往生」
敗戦後一時共産党に入党したのも「軍国主義体制を粉砕したかったから」と自著にあるそうです。「実体験をもって先の大戦を指弾する立ち位置は保守の論を張る後年もぶれることがなかった。」
いわゆる「歴史修正主義」者とは一線を画し、首相の靖国神社への公式参拝には公然と反対していました。
「気骨の言論人」であると同時に中曾根康弘氏とは特に親しく「政界のプレイヤーを演じました。言論人でありながら、政界工作にも長けた希有の存在でした。政治記者時代に昵懇(じっこん)の政治から「俺に衆議院議長のポストを取って来てくれ。」と依頼された逸話もあり驚きますね。
政治家の「番記者」なら権力闘争の裏側も知りうる立場でもあります。政治家の連絡役や使い走りをした政治記者は多かったとは思いますが、実際に「政界工作」までできる人は後にも先にもいないでしょう。
またプロ野球巨人のオーナーであり最高顧問。大相撲の横綱審議委員会の委員長も務めていました。またサッカーJリーグ発足時に、初代Jリーグの川口三郎チェアマンが「讀賣ベルディ」ではなく地域名で「川崎ベルディ」にしてほしと要望すると、「それは駄目だ」と言い大論争をしていたこともありました。
また読売新聞と言えば、創業者でもある正力松太郎氏がいました。読売新聞の社業を発展させ、一方でプロ野球を作り上げ、巨人軍をこしらえた人でした。
渡辺恒雄氏は、正力松太郎の「引き立て」もあり、まさに「後継者」になりましたね。
1つの時代が終わりました。政治力を発揮した渡辺恒雄氏でしたが、いわゆる「政治屋」「政治屋ずれ」はなく最後まで「読売新聞主筆」であり言論人でした。
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