52年前の悔しい登校日
4月8日(月曜)は春休み明けで、新学年の・新学期が始まるスタートの日になります。春休みが終わり、学校に登校します。52年前のこの日は思い出すと悔しく腹立たしい日でした。
1972年3月1日に高校を卒業できませんでした。1単位足りませんでしたが「追卒業」(3月15日)にもしてくれませんでした。担任の教師は自宅へ来ては執拗に自主退学を迫りました。母は突っぱねました。教師に「留年する」と伝えましたが、担任教師は「絶対に卒業は無理だから」と言い放ち、何も登校日迄連絡してきませんでした。
そして1972年4月8日に留年するために1人で高校へ行き、職員室に行きました。引き戸を開けますとなかに教師が何人かいました。「お前何しに来たんだ!」とたわけたことを言いました。「留年しに来たがよ。担任の教師は何も連絡がなかったぞ!」と言いました。
「お前を受け入れる担任を決めるので、校長室で待ち寄れ」というので、校長室の応接のソファーに座りまりました。しばらくして教師が呼びに来て「お前を受け入れるクラスが決まった。ホームルームしているからそこへ行け」と言われました。行くと教室の中ほどに空席があり座りました。1学年下の連中とクラスメートになりました。
大学と違い高校の留年(原級留置)は、全科目再履修ですので、結構きついものでした。おまけに担任教師が全く連絡してくれなかったので、教科書も制服も、体操服も変わっていました。教科書はないと困るので、教科書販売会社に1人で購入に行きました。制服と体操服は担任教師の不作為ですので、買いませんでした。
1人だけ色の違う体操服で体育授業を受けていました。わけのわからん体育教師が「お前服装違反だ」というので「担任教師が何の連絡もいない方が悪い」と突っぱねました。とにかく腹の立つ高校でした。なんとか卒業が出来ました。52年過ぎましても思い出すと腹立たしい。
担任教師は共産党の教員組合でした。生徒指導の教師はファシスト系労組員でした。どちらの連中とも対立していましたので、たぶんいじわるをされたんでしょう。その高校には尊敬する教員は只の1人もいませんでした。翌年は3月1日の卒業式には出ましたが、すぐに帰りました。大学にも合格しましたが高校へは連絡しませんでした。
3月5日には母と一緒に大学の教務課に行き、下宿先を紹介受けました。一度戻り、母ともう1度上京し4月2日は日本武道館での入学式に行きました。桜が奇麗に咲いていたことを思い出しました。何かと支援してくれた母は2年前に他界しました。
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