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2022年12月23日 (金)

母・春子が旅立ちました

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 2022年12月19日(月曜日)に西村春子(97歳)は旅立ちました。1人息子の私にとりましては、かげがえのない母でした。

 12月11日(日曜)の未明の24時過ぎに通所していたショートスティ先から「お母さんが高熱(38・2度)を出し検査したらコロナ陽性との連絡がありました。

 翌日の12月12日(月)に私たち夫婦も抗原検査キットで検査しますと2人とも陽性でした。発熱外来を予約し医師の診察と、自宅療養の注意点を言われました。
DSCN3550
 そして12日の夕方に母がショートスティ先から戻りました。母もコロナ陽性、介護する私たち夫婦も陽性です。保健所からの指示で朝夕に3人の体温を測定、酸素濃度も測定し、記録しました。保健所から連絡があり、3人とも平熱で異常がないことを言いました。

 母のコロナへの感染報告は、訪問医師の南先生に報告しました。12日帰宅当日の夕方に訪問看護師さんが自宅へ来てくれました。その折母用に、酸素濃度測定器と酸素吸入器を貸与頂きました。

 また飲み薬の抗ウィルス剤が投与されました。薬はすぐに毎食後5日間は飲みました。コロナの療養期間は家内が16日まで、母が18日まで、私が19日まででした。3人とも5回コロナワクチン接種は済ませています。インフルエンザの予防接種もしていました。

 療養期間中は3人とも、体温は平熱でした。順調に体調は回復し、家内は16日、母は18日、私は19日に保健所から療養期間終了の連絡がありました。

 12月18日は、母は元気そのものでした

 療養したこともあり、母の体調もよく起床してすぐにトイレへ連れて行きましたが、介助したらゆっくりとトイレまで行きました。そして普通便の大きな便が出ました。体温も酸素濃度も申し分ありません。

 朝食もゆっくりとペースト食を完食しました。昼食も完食しました。昼寝をして16時頃起こし、おやつを食べました。プリンが好きなので、息子の嫁が差し入れしてくれました。全部食べました。

 夕食は少し食欲が落ちていました。焦らず時間をかけてゆっくり食べました。お粥半分残しました。わたしは少しでもサッカーW杯の決勝戦を見たいので早寝wしたいと言いました。

 吸出しをしました。歯磨き後、母を寝かしつけました。がくっと足が崩れ落ちました。椅子を持って来てもらい。座らせました。5分程度休息し介護ベットへ運びました。

 母はベットに腰かけて座れない状態でした。ショートへ行く前は座れてていました。体幹が弱っています。寝かしつけました。それでわたしは寝ました。

 家内は母がゼロゼロと言っていたので、夜中に2度吸出ししたそうです。24時と1時半過ぎにしたそうです.効果はなかったとのこと。

 午前3時過ぎまでスマホでABEMATVにしてW杯決勝をラジオで聞いていましたが、延長・PK戦になりましたのエ、家内と交代しました。午前3時半に、母を見ました。指に挟むと酸素濃度は95% 脈拍は88でした。

 それで安心してPK戦を見て、アルゼンチンの優勝を確認。その後の表彰式までだらだらと見ていました。その間朝食を準備していました。そして食べながらその様子をみていました。

 午前7時過ぎになり、確認すると母が冷たい感じでした。家内が起床してから確認しようとさほど気しませんした。午前7時半に母を再測定しました。そしたらずっと酸素吸入しているのに酸素濃度が0%と表示され、脈拍も0になっていました。

 さすがにこれはおかしいと思い指の場所を変え、別の指でも添いましたが、結果は同じです。あわてて訪問医師の南先生の病院に電話しました。当直の看護師さんにその様子を伝えました。ほどなく南先生から折り返しの電話がありました。「準備していきますので。30分以内に到着します。」とのことでした。

 8時過ぎに来ていただきました。そして診察していただきました。母は既にこと切れていました。先生と話をして死亡時刻は2022年12月19日(月)の午前7時半になりました。
葬式看板
 死亡診断書の死因は「誤嚥性肺炎」でした。コロナの影響もありとの記述もありました。コロナは療養中は発熱もなく平穏でした。18日には母は保健所からコロナ療養無事に終了と言われていました。

 療養はしたものの母は97歳という超高齢者なので、19日からの1週間は自宅療養にして、21日(水曜日)に南先生の診察を受けて、問題がなければ、翌週の26日(月)から各種介護サービスを再開する予定でした。

 それなのに母は旅立ちました。とても残念です。でも前日に大好きなプリンも食べました。母が覚えている唱歌の「もしもしカメよ」を一緒に歌いました。苦しんだ様子は様子はみじんもなく、安らかな寝顔です。
葬式1

 コロナはやっつけましたが、力尽きたようでした。それが母の寿命なのでしょうか。自宅で看取ることも出来ました。苦しんだ様子は全くありませんでした。私も家内も懸命に母の在宅介護をしました。悔いは全くありません。

 でも悲しい。家内は「お母さんはお元気なのであと5年は生きるでしょう。私らの方が先に壊れるね。」とか言っていましたのに。

 当日母の死去が確定したところに息子夫婦が出勤してきました。嫁の実家が葬祭会社をしているとか。そこへ依頼していただきました。

 19日は葬儀の段取りや、日程調整しました。時節柄ノーマルな葬儀は無理ということです、家族葬形態にして、事前の新聞広告や得意先への連絡はしない。親戚と地域のごく限られた人にお伝えしました。少人数で母を見送ります。東京の娘も帰ってくることになりました。

 21日に通夜、22日の朝に告別式を家族葬形態でします。そして23日に地元紙に葬儀のご報告の告知広告を出します。そのあとにWEBでも情報伝達します。
DSCN9717
 19日に逝去してから自宅に母はいました。いつものように介護ベットに寝ています。19日の午後に訪問看護師さんが2人で来られ、母を奇麗に身体を拭いていただき、お気に入りの服に着かえていただきました。ありがたかったです。

 19日、20日と母は家にいました。21日に葬儀屋さんが寝台車で母を2階から下ろし葬儀場へ連れて行きました。21日は雨の中での通夜式でした。20人ほどが参列していただきほのぼのとした通夜式でした。


 22日は朝10時からの告別式。高知市斎場の都合です。冬になり亡くなる人が激増中とか。その時間帯になりました。ごく内輪の親類を中心にしたコンパクトな葬儀でした。それもいいですね。親戚とは久しぶりに話が弾みました。

 母は社交的な人でしたので、いろんな人たちにお見送りをしていただきたかったのですが、コロナ禍第8波の最中です、無理は出来ません。爽やかに母は旅立ちました。きっと極楽浄土へ行くことでしょう。合掌。

 FBでも母に関して暖かいコメントをいただき感謝しています。私たちは懸命に母の在宅介護をしました。コロナになっても手を抜かずしました。予想より早く母は屋日だちましたが、悔いはありません。

 お通夜も葬儀もごく少人数で執り行いました。連絡したくても出来ない人が多く申し訳ないと思いました。コロナ禍ですので御容赦下さい・

 高知斎場で母の骨を拾いました。頭蓋骨や大腿骨、骨盤や歯型などがしっかり残っていました。骨太の母でした。母の息子であったことを誇りに思います。

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