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2015年10月14日 (水)

今野清喜さん講演会


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 2015年10月11日に、下知コミュニティ・センターにて今野清喜さん(石巻市湊東地区まちづくり協議会代表世話役)の講演会が開催されました。
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 森宏下知減災連絡会会長から歓迎の挨拶がされました。坂本茂雄事務局長からは、6月に下知減災連絡会有志で6月に実施した「南海トラフ地震未災地の私たちが、東北被災地に学ぶ交流の旅」の報告書を今野清喜さんのご紹介かたがた説明されました。
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 そして今野清喜さんの講演が始まりました。詳細については後日西田政雄さん(防災寺小屋主宰)が当日ビデオ撮影されておられます。後日動画としてネットに上がると思われます。参考にしてください。」
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 講演のなかで印象に残った語句を列挙します。

「3月末に県職員を退職する予定でした。2年前から町内会長もしていました。東日本大震災当日は、休暇を取り家内と定年後のことについて話していました。2011年3月11日午後14時46分に大きな地震がありました。

 とにかく長い地震でした。家内は庭に出ていて、私は転倒防止策をしていないピアノを抑えていました。過去に宮城県沖地震も体験していますので、家具の固定など地震対策はきちんとしていました。」

「しかし津波に対してはほとんど無防備でした。大津波警報も出ました。しかし前年ン2010年のチリ地震遠地津波も予報は3Mでしたが、実際には数十センチに津波でした。今回もその程度でしょうとたかをくくっていました。」

「町内会長をしていて自宅にいました。家内は民生委員をしていて町内に2人とも顔見知りが多かったです。揺れが長かったので津波の恐れもあるので、ご近所に声をかけ、地域の避難場所になっている葬祭会館のホタルへ避難しました。」

「大津波が見えたので急いでホタルの2階へ避難しました。蛍の前は幹線道路。車に乗ったまま流されている人たちを多く見ましたが、どうしようもありませんでした。」

 「蛍には250人ぐらいが避難していました。学校のように指定避難所ではないので、水も食料も施設に備蓄していません。ろうそくだけは豊富にありました。」

「震災当日は晴れていましたが、津波が納まると余震が多くありました。施設の職員もいましたので、避難所のためにカーテンを剥がして利用させてもらいました。」

「避難していた人たちも町内会の行事や防災訓練、盆踊り大会などで顔見知りが多く心強かったです。ローソクの灯りの範囲で班をつくりグループをこしらえました。水や食料は用意の良いひとは玄関先に防災グッズのリックなどで非常食と水を持って来ていましたが、1割もいませんでした。」

「顔見知りが多くてパニックにはなりませんでしたが、水も食料も不足するので、3日目あたりから話合いをして、決死隊をつくり館の外へ調達に行きました。流れている缶詰や袋入りの飴などを調達し、皆で分け合いました。水は別の集会所に置いてありました。」

「情報はラジオが頼りでした。電気も携帯電話も使えません。3月14日に自衛隊が来てくれておむすびをくれました。皆が満足できる量は供給されません。服薬している人が多くて薬の不足に困りました。」

「避難所には看護士さんが2人いました。丹念に薬の種類を聞き取りをしてくれました。食料を食べる場合は爪を切って清潔にしましょう。トイレを綺麗に使いましょう。掃除しましょうと言って下さり、避難所の雰囲気が明るくなりました。

 子供たち、高齢者、女性、の順に優先するルールをつくり、6時半にはラジオ体操もしました。また7時、11時、16時半位に連絡タイムをつくり、情報を共有化しました。」

 「避難5日目になると湊第2中学からヘリで広域避難所へ移送するという情報が入り、避難者の半分が移動し、半数は自宅などが気になる人が多く、残留しました。」

「県北部にいる親戚が仕出し屋をやっていました。なんとか連絡して300食のおむすびとから揚げを避難所へ届けてもらいました。皆が元気になりました。常日頃から被害を受けていない地域との交流は大事である。支援はありがたいと思いました。」

「10日間の蛍での避難所生活でした。教訓を上げてみます。

1)役割分担を決めること。各分野の責任者を決めること。施設内で飲酒は禁止にしました。

2)要援護者の早期の移設を心がけました。

3)服薬の薬は大事。看護士さんが2人おられて助かりました。普段から自分の服薬する薬は持参するか、薬手帳などを携帯するようにしないといけない、携帯電話の画僧に記録することも大事です。

4)、夜間の見回り警備も大事です。

5)情報を施設内で共有化するために、連絡を7時、11時半、16時と行いました。

6)トイレの掃除と清潔化が大事です。

7)自分たちでやれることは自分でやること。

8)ペットの問題で苦労しました。」

「地域で多くの人が亡くなりました。常日頃の繋がりがとても大事です。盆踊りの時に炊き出し訓練をしていて、参加されている町民は防災意識が高く、皆助かりました。亡くなった人たちは、行事へも防災訓練へも参加しない人たちでした。」

「要援護者や高齢者の皆さんも「助けて下さい」と周りの人に遠慮なく言う事です。それにより地域の人達が結果的に早く避難できます。よくあるのは私は高齢だから逃げないとか言おう人がいます。放置して逃げることが出来ず説得中に津波に巻き込まれ命を落とした人もおられました。」

「自分がどんな地域に住んでいるのか。地域の特性と特長、危険個所を知ることです。

 参考図書として「石巻赤十字病院の100日間」石巻赤十字病院+由井りょう子著・小学館2011年9月刊)です。」

 講演をノートに聞き取りながらですので、今野清喜さんの講話を時系列的に正しく聞き取りできたかどうかは正直自信はありません。印象に残った事柄を記述してみました。

 送迎の間や、地域の見学をされている間に今野清喜さんと話をしました。事前に下知地域の事情も独自に検索されていました。事前にいろいろとやっていることや、他の地域との交流(今治市や仁淀川町)などは有益であるとも言われました。

 ご指摘されたのは市街地ゆえの火災対策をすべきではないかと言われました。自宅からの失火や津波で自動車が流されての火災(石巻市門脇小学校付近)や、石油施設での火災(気仙沼)なども起きたからです。

 正直懸念はしていますが、事前の対策まではしていません。

 訴訟が起きている事例として、高台にあり安全な場所に保育所はありましたが、保護者宅へ送迎しようとして送迎車を出して津波に遭い亡くなった事例。

 近くに高台があるのに業務を続け銀行の支店職員の多くが死亡した事例。裏山が隣にあるのに、そこへ逃げずに運動場に待機して教員と児童の多くが亡くなった小学校。犠牲者が出ますと復興の足かせになります。

 とにかく下知地区の危険性を熟知し、地域の特性を住民皆が把握し、実際に南海地震が起きた場合、素早く津波避難施設(市指定や地区防災会指定のビル)に垂直避難することです。

 避難所運営や受援力(支援を受ける力)を意識してつけることでしょう。

 南海地震はいつ起きるかわかりませんが、70%の確立で起きることはまちがいありません。災害大国日本で生きのびる知恵と工夫は国民1人1人が考え、実行することでしょう。
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