東北被災地に学ぶ交流の旅(その1)1日目
2015年6月20日(土曜日)から23日(火曜日)にかけて、高知市から防災関係の有志8人が「東北被災地に学ぶ交流の旅」に参加しました。
高知空港―大阪空港(伊丹)経由―仙台空港。仙台空港からは地元松山観光バスをチャーター。運転手の佐藤さんも石巻市で津波で自宅が被災されたそうです。
仙台空港から一路石巻市役所へ。元地元百貨店跡が市庁舎。その前で石巻市市議会議員の千葉真良さんと、今野清喜湊東地区まちづくり協議会代表世話人の2人がバスに乗車。石巻市の高台である日和山へ向かいました。
確かに日和山からは石巻市の海岸部近くの市街地が一望できます。
「みんな津波が来るとは思っていなかったんです。1年前のチリ地震津波は、3Mの予報が出て大津波警報まで出ましたが、大したことはありませんでした。今回も最初に3Mの予報が出ました。ほとんどの人達は大したことはないと思い。逃げませんでした。」と今野清喜さんは説明していただきました。
確かに海岸部の堤防は低い。でも日和山という高台があり、津波が襲ってくる前に時間がありましたので、みんなが日和山に登れば、みんな助かった可能性はとても高かったと言えます。しかしそうしない人も多くいたそうです。
海側と反対側は、北上川が流れています。津波は遡上してきて市街地を襲いました。千葉さんと今野さんは湊東地区でご近所とか。東日本大震災当時、千葉さんは石巻市市議会の真っ最中。市役所やその前の石巻駅も津波の侵入で水没。水が引くまで1週間近く市役所に籠城が強いられたと聞きました。石巻駅北側の街区は津波の勢いは弱く、1階部分に津波は来ましたが、家が流されることはなかったそうです。
湊東地区の自宅に今野さんは、地震当日は休暇を取られいたそうです。当時町内会長もされていたので、ご近所の人達に声掛けして避難行動をされました。近くの蛍(ほたる)いう葬祭会館にみんなで駆け上がり助かりました。
日和山から下りて、門脇小学校前へ来ました。震災当時流れてきた車に火引火して津波火災になり、校舎が火に包まれました。幸い生徒たちは、裏の日和山に逃げ無事であると聞きました。
現在「震災遺跡」にするかどうかで石巻市で議論をされているようです。賛否両論あるそうです。遺族は撤去してほしいと言うそうです。でも何もなくなれば震災の事が忘れるれるので残すべきであると言う意見も根強くあるそうです。
千葉さんは「広島の原爆ドームだって保存が決まったのは、被ばく20年後でした。この施設も大川小学校もそうでしょうが、1世代(30年)ぐらい経過してからどうするのか決めるべきでしょう。」と言われました。
こちらの門脇地区は門脇小学校跡から50M先に高台道路が建設中。その道路から先の広大な区域は危険地区になり住居は建てられません。防災公園や震災記念公園にする構想もあるそうです。
高台道路から日和山までの区画は住居地として整備されるようです。
確かに私も「震災20年慰霊祭」に神戸市長田区鷹取東地区へ行きました。全く震災の痕跡はありませんでした。当時の事は写真で知るしかありません。長田駅前の高層マンション群や、建て替えられた3階建ての住宅街を歩いてみても、20年前に大震災があり、壊滅的な被害を受け、火事で焼失した地域である名残は全くありませんでした。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/cat60291529/index.html(神戸市長田区鷹取東地区との交流)
湊東地区の現状と当時の様子、こらからの地域の再建のための土地区画整理事業について説明を受けました。
バスは湊中学前で降りました。「当時デイサービスのバスも3台ぐらい止まっていました。津波が来ても、車椅子では階段が登れない。それで多くの高齢者の人達はお亡くなりになりました。
隣に湊第2小学校があります。こちらは湊小学校に震災後統合されました。今野さんは、運動場を人工芝で覆いサッカーグランドにしたいとの構想をもっています。
また今野さんから避難所開設の折、葬祭会館でしたので、葬儀の参列者名簿が避難者名簿になったこと。」とっさでしたので、段ボールなどに必要事項を書いたとも言われていました。
湊東地区の土地区画整理事業の概要も聞きました。「家を失った方には、自力再建する人、できない人、転居される人がおられます。また危険地区に指定されれば、土地は行政が買い上げてくれるようになるが、住居はそこでは建てられない。
湊東地区では、土地を売りたい人から市が購入。そのことで減歩率を低めにすることが出来ました。嵩上げをせずに区画整理事業をするので、完成は早くなるとのことでした。
千葉さんは「震災後3か月間石巻市役所で寝泊まりしました。駅の北側は浸水していましたが、津波の勢いが弱かったので、家屋は壊れてはいません。日赤病院が拠点病院になり、専修大学石巻校舎は大規模避難所になり、ボランティア・センターになりました。]
「石巻市は支援の手が伸びにくい地域です。地震発生直後の各機関の連携が特に必要です。生きのびるための作業をやることが大事です。」
今野さんは「2011年3月21日で県庁を退職することになっていました。11日は休暇で自宅に居て被災しました。町内会長もしていましたので、町内の安否確認をして、近くの蛍葬祭会館へ避難しました。津波は地震後1時間後に押し寄せて来ました。
石巻市で3000人、町内で40人が亡くなりました。避難訓練二日ごろ参加している人は殆ど逃げました。訓練に参加しない人の多くは亡くなっていました。
携帯は使えません。電気は2か月後に復旧しました。お風呂は2月は入れませんでした。
蛍の避難所に200人が逃げ込んだ。当初女性トイレが汚かったが看護師さんが「爪を切って手洗いをしましょう。(薬剤は豊富にあった)と講話されてから避難所が清潔になり活気が出て来ました。避難所にまとまりが出来ました。被災していない地域からの支援はありがたかったと今野さんは言われました。
見回りと食料調達。3日間は自前でやっていました。4日目に自衛隊が来ました。
区画整理事業が早く導入できたのは、町内がお祭りなので顔見知りになっていたことが大きい。
今野さんの避難所体験談は、大変参考になりました。避難所にあらかじめ用意しておくもの、避難所名簿などは、防災BOXなどに入れておくなどすべきでしょう。
あらかじめ可能なら「避難所のルール」をこしらえるべきでしょう。
千葉さんと今野さんからは何としても自分たちの街を再生するんだという意気込みを強く感じることができました。また「普段のコミュニケーション、近所付き合いの大事さがわかりました。
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