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2015年7月27日 (月)

東北被災地に学ぶ交流の旅(その4)4日目

 早朝仙台市のホテルを抜け出し、横田政道さんと一緒にタクシーで仙台城跡へ行きました。天守閣などの建物は、明治時代に廃藩置県の折に壊され跡形もありませんが、仙台平野を見下ろす高台に、仙台を発展させる基盤をこしらえた伊達正宗の銅像がありました。
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 後でNHKの番組「ぷらたもり」で見たのですが、伊達正宗は仙台の地形を調査し、城下町を海辺近くの広大な仙台平野部にこしらえず、広瀬川の河岸段丘地域にこしらえました。古書を調べ、津波災害のリスクを考えていたかもしれません。

 NHKの「ぷらタモリ」で、伊達正宗は広大な仙台平野に城下町をこしらえず、高台の広瀬川の河岸段丘に城を築き、城下町を整備しました。先人の知恵でしょう。

http://www.nhk.or.jp/buratamori/map/list13/index.html(ぷらたもりHP)

 私たちは本来人が住んではいけない場所(低地海抜0メートル地帯)に住んでいます。それは温泉街の人達と同じ。便利さと危険さは常に隣り合わせなんですね。同時期高知へ入ってきた山内一豊は、大阪をまねた水運の良い高知城下町をこしらえました。しかし藩政時代でも宝永(1707年)と安政(1854年)に南海地震が起き、城下町は津波や浸水で大きな被害を受けました。

 昭和南海地震(1946年)でも、高知市の下知地区や潮江地区も地盤が沈下し長期浸水状態は3か月以上続きました。
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東北被災地交流ツアー最終日の4日目は、仙台市のホテルを出発し、仙台市の隣の名取市閖上(ゆりあげ)地区へいきました。途中嵩上げして土地を造成している広大な場所を通り、日和山(ひよりやま)へ行きました。
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 そこで語り部である格井直光さん(閖上震災を伝える会代表)から、震災当時の話を聞きました。日和山は海抜6・3メートル。大津波は8メートルの高さがあり、日和山を越えて行きました。
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 日和山から見下ろしますと、広い平野で全く高台も、津波避難ビルとなる鉄筋コンクリートの建築物は見られません。地域には川もあり津波は遡上してきたそうです。
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 太陽光LED照明灯が、JSファンデーションの寄贈で日和山には3基設置されていました。東北3県で300基の太陽光LED照明灯を寄贈されています。

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http://www.js-foundation.com/index.html

 その影響は四国へも出ていました。今年「高知蛍プロジェクト」が起動し、70基の
太陽光LED照明灯が高知市の津波雛ビルなどに設置されます。

http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-9298.html

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 格井さんのお父様も長年地域の河川の水門管理者をされており、震災当日お亡くなりになったと聞かされました。
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「閖上地区の人口は7100人。3月11日午後2時46分当時在宅していたのは4000人。津波によって800人が亡くなりました。名取市中心部から5キロも離れています。震災直後は住民は避難所か、自宅避難していました。

 今後の閖上をどうするのか。そのために住民同士で話し合いをして閖上地区まちづくり協議会(鉢生勉代表)をこしらえました。」閖上復興便り記念誌の「ゆりあげ通信」や、新聞形式の「閖上復興だより」もいただきました。2011年10月には、「閖上復興だより」が発刊され、いただきました資料では33号まで発行されています。
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 今も日和山には全国各地から慰霊に人々が来られています。海が近く高台がない平野部の情景は、南国市南部や、香南市吉川地区や赤岡地区に良く似ています。
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(高知県香南市の津波浸水予想地域。色刷りの地域が津波で浸水されると言われています。特に吉川・赤岡地区の沿岸部は平地で、高台は皆無です。)最近は「津波避難タワー」という人工の「高台」が沿岸部には建設されています。
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 場所を名取市の法務局のある建物の会議室へ移り、閖上地区まちづくり協議会会長の鉢生勉さん、副会長の今野義正さん、格井直光さん(閖上震災を伝える会代表)、閖上地区復興まちづくり事業を担当するコンサルタント会社の渡辺成彦さん・阿部晃久さん(パシフィックコンサルタンツ(株))も同席して意見交換会がなされました。
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「復興まちづくりの経緯ですが、3月11日に東日本大震災が発生し、被災市街地復興推進地区の指定になりました。10月には名取市震災復興計画が策定され、12月に閖上復興まちづくり」推進協議会が設立され、翌年から被災住民代表も加わり地区別の懇談会も開催されました。仮設住宅やみなし仮設住宅、自宅避難など避難の形態は様々で、連絡を取り合う事が大変でした。」

 個人情報保護のたてまえがあり、なかなか被災者全員に連絡をとることが難しいとのことでした

 そういう点で格井さんたちが頑張られて発行した「閖上復興だより」は、地域コミュ二ティを復活・強化していく上では効果的であると思いました。
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「個別面談が進んでいきますと、当初の予定していた被災市街地復興土地区画整理事業の面積70ヘクタールが、57ヘクタールに縮小され、非居住区域(災害危険区域)である防災集団移転促進事業が52ヘクタールから、65ヘクタールに拡大されました。」
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 閖上で住民組織を束ねておられる皆さんのお話を聞いていまして、震災復興計画の立ち上げが早いなと思いました。また閖上復興100人会議のように、住民参加も徹底されておられ、名取市当局との折衝も上手くいかれていると思いました。

 閖上地区まちづくり協議会の人達の熱い想いが伝わりました。行政側を上手く動かされているなと思いました。

被災市街地復興土地区画整理事業では敷地全体を5メートル嵩上げしています。嵩上げ工事は来年位には終わるので、それからの住宅再建―閖上地区の復興が本格化するようです。

 震災以前より、より良い閖上を再建・再興しようと言う熱い意気込みを感じることが出来ました。地域の祭りを再興し、地域コミュニティを再建・再構築をすることが、復興・復旧にとって不可欠であることを学びました。
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 閖上地域コミュに二ティ紙ともいえる「閖上復興だより」は、2011年11月頃の創刊号から、月に1度の頻度で発刊されています。避難所や仮設住宅、みなし仮設、自宅避難されている閖上地区の住民に全戸配布されておられると思います。
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 地域の細かい情報、たとえば、復活しつつある地元企業のレポートや、お祭りに関する情報、閖上復興まちづくり協議会の情報や、区画整理事業と防災集団移転促進事業などの情報提供も記事になっています。
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 災害復興事業はこの先何年も継続します。この先どうなろうと閖上ともに生きていくと言う強い決意を感じました。

 東北被災地交流ツアーは、終了しました。僅か4日間の被災地訪問でしたが、地域により状況は異なり、立場も考えも違います。旅行後1月が過ぎようやく最初のまとめができました。でも多くの教訓や戒めを記録していません。それを意識しながら、今後は下知地域の減災活動に役立てます。

 今年は内閣府の「地区防災計画モデル地区」にも高知市下知地域はなることができました。アドバーサーの方やコンサルタント、高知市地域防災推進課の実務担当者とも協働して、下知地域の総合復興事前計画が策定できる基礎が出来るように、今年は活動したいと思います。

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 http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-1c3b.html

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