東北被災地に学ぶ交流の旅(その3)3日目
3日目は東松島の宿舎を出て、石巻市にある石ノ森章太郎漫画館へ行きました。北上川の中州にありました。震災時は館の1階には津波が押し寄せたそうです。幸い石ノ森章太郎氏の原画や貴重な資料は2階や3階に保管されていたので無事でした。(石ノ森漫画館は2001年に開所)。
漫画館のなかは親父世代には懐かしい石ノ森ワールドのキャラクターたちで溢れていました。
本郷由華さん(まちづくりまんぼう)に震災当時のお話を聞くことが出来ました。
「地震当時は開館中でした。津波は押し寄せて来ましたので、来館者も含め2階部へ避難しました。一段落して、皆が無事に脱出することができました。」
「水が引きますと1階部はヘドロに覆われていました。当時は諸般事情で職員は3月末で一旦解雇されました。でもボランティアで館の片付けに皆来ていました。」
「石ノ森章太郎さんは石巻市出身(正確には宮城県登米郡石森町出身)の漫画家です。街のシンボルとして中心街の道路には多くのキャラクターが置いてあります。漫画館を早く復興させることが石巻市の復興になるという想いで、皆頑張ったと思います。」
「石ノ森章太郎さんゆかりの漫画家や編集者の方もご支援をしていただきました。そして復興し、多くの来館者が来ていただきようになりました。」
また本郷さんお奨めで、最近できた石巻市の復興まちづくり交流館を訪ねました。最近できたそうです。
そこでは2人の女性たちが「語り部」として震災当時の様子や今後の石巻市の復興のありかたについて模型や、画像を見ながら解説いただきました。
東北3県で突出して石巻市が甚大な被害が出ていることが理解できました。
女川町へ入りました。高台にある女川町立病院駐車場から市街地をを見下ろします。津波は街区を総なめにし、病院駐車場までせり上がりました。多くの人達が亡くなられたそうです。
女川町では街区のかさ上げ工事が延々とされています。15M嵩上げされるとか。いつまで工事は続くのでしょうか?その後街路整備やインフラ整備をして、住民が家屋を建築するのは何年先になるのでしょうか?
女川から雄勝にかけての海岸線は美しい。訪問当日(2015年6月22日)は晴天でしたので、特にそう思いました。
雄勝へ着いて、昼ごはんは海鮮丼を食べました。その場所で土佐ノ森救援隊の人に会いました。偶然もあるものです。昼食後阿部晃成さんとお話しすることが出来ました。雄勝町の未来を考える会事務局という名刺をいただきました。
雄勝の津波は勢いがあり高かったようです。河北新報の当時の写真です。
阿部晃成さんのお話を聞きました。
「雄勝は津波が高く押し寄せて来ました。自分達は高台の親戚の家に逃げましたが。家ごと津波に流され、雄勝湾へ流されました。偶然空船に乗り換え、奇跡的に助かりました。」
「電気商を父の代から営んでいました。雄勝復興協議会のなかにも入っていました。しかし高台移転ありき。の方針はおかしいのでは、と意見を言いますと、メンバーから外されてしましました。以後地元紙の河北新報も私の意見を取り上げてくれません。」
「海に面した雄勝の中心地の再生は復興の議論の中では認められられませんでした。高台移転もいいですが、現地での再建も認めていただきたかったのです。」
「高台移転しかないという意見になっていて、異論を言うことが出来ない状態です。かつての街の中心は「災害危険区域」に指定され、住宅は建設できなくなりました。近くの山を造成して高台を整地し、そこへ住宅を建てる。
600世帯あった雄勝の集落で、高台移転を希望したのは当初は200世帯でしたが、議論しているうちに150世帯に減りました。負の連鎖になり、もっと減るかもしれません。公費をつぎ込むのですから、もっと慎重な議論が必要であると思います。」
お話を聞いていまして感じたのは「平成の大合併」で、雄勝町は石巻市と合併しました。その弊害が出ていると思いました。雄勝町単独の復旧・復興計画であれば、元の市街地も考慮したものになっていたのではないかと思いました。住民各位の合意形成が現在の計画で本当に出来ていたかどうかは正直わかりません。
結果として時間が経過すればするほど、高台造成地に住もうという人は減少して行きます。莫大な税金を費やして、住む人が少ない集落ができてしまします。住民と市役所がどうして協働できなかったのか。何で行き違ってしまったのか。話を聞いていて身につまされました。
続いて雄勝診療所の河瀬総一郎(歯学博士)さんとスタッフの方にお会いしました。曳家の岡本直也さんのご紹介でした。
河瀬総一郎さんの紹介のWEB情報
「震災関連死で高齢者の亡くなった方が多い原因の1つに震災後十分に歯の治療や入歯の手入れが出来ないところへ、おにぎりやコンビニ弁当、牛乳+パンなど高齢者にとって苦手な食事ばかりしばらく継続したことも一因です。炭水化物過多で、ビタミン不足になっていました。
誤飲して嚥下障害を起こし、肺炎になる人も多かったようです。多くの方が震災後に亡くなりました。障害者の方も抵抗力がなく、歯の治療も震災後なかなかできず困っておられていました。社会的弱者を災害弱者にしないことです。横のつながりを持っていくことから始めました。」
「往診もするようにしました。自分で診療所に来ることが難しい、障害者や高齢者宅を訪問し、口腔ケアを実行して行きました。」
「1人で孤立することなく地域の人同士が見守り声掛けをすることが大事です。雄勝地区の集会所機能を持たせるために、ここでは子育て支援事業も保健師さん協力で実施しています。」
「私の災害時対応ハンドブック」もご紹介いただきました。
http://www.miyagi-nanbyou.jp/handbook.html
宮城県神経難病医療連携センターと宮城県では、東日本大震災の体験から普段の療養から自助力を高めて災害にも対応できるようなハンドブックを作成されています。
また「ハードバッチ」も紹介されました。「外見では、障害が在るかどうか分りにくい児童に対して、災害時をはじめとする困惑した場面で手を差し伸べてほしい」という想いでつくられました。宮城県立古川支援学級のPTAが中心になり2008年から開始された取り組みで、東日本大震災の経験により各支援学級でも取り入れるようになっている。」(河瀬総一郎さんに頂いた資料「災害時の歯科保健医療対策」より引用)
また特定非営利活動法人まち・コミュニケーション代表理事の宮定章さんにもお会いしました。
その後岡本直也さんが土台部分を修復し、元桑浜小学校跡を再生して宿泊・体験施設にし、山と海の体験ができる施設になったモリウミアス」を訪ねました。そちらで理事の油井元太郎さんに会いました。
「都会の子供たちに山の体験、海での体験をしていただきます。」と言われました。施設はほぼ完成されています。今年の夏休みから活動されるようです。
その後北上川沿いにある大川小学校跡へ行きました。バスを降りて歩きますと、低地にあることに驚きました。そしてすぐ目の前に山がありました。なぜ山へ逃げず校庭で整列している間に津波に流されたのか。
慰霊碑がつくられていました。大川小学校の海抜の低さには驚きました。
その後一路仙台市へ向いました。ホテルでチェックインしてから、市内の飲食店へ繰り出しました。そこへ昨年9月にNHK仙台放送局での収録でお世話になりました塚原奏介さんと津田喜章さんにみんなでお会いし、情報交換し懇親を深めました。
昨年のNHK仙台放送局の全国放送のラジオ番組「いま災害を生き抜くためのことば」に出演させていただいていました。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-27c3.html
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